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歴史を訪ねて 北部地区
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区内でこれまで確認されている54か所の遺跡のうち縄文時代中期の遺跡は43か所です。しかも、東山貝塚遺跡や油面遺跡、大橋遺跡などは大規模な集落であったことが発掘調査によりわかってきました。
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駒場二丁目にある水田は、かつての駒場農学校農場の一部です。わが国で初めて水田での肥料試験が行われた、農学史を飾る由緒ある水田なのです。
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幕末の政治の急変は、江戸近郊の野菜の生産地目黒にも無関係ではなく、農民たちが竹やりを持って幕府の役人に立ち向かうという事件もあったのです。
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明治政府が富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適した土地として、再び注目を浴びることになりました。
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昭和4年から5年にかけて、前田家16代当主前田利為侯爵は、駒場の約1万坪の敷地に、地上3階地下1階建ての洋館と、これを渡り廊下で結んだ2階建て純日本風の和館とを相次いで竣工させ、当時東洋一の大邸宅と人々の目を見張らせたものでした。
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駒場公園には、日本農学発祥記念の地ケルネル田んぼがあります。駒場農学校が、日本近代農学の発展に果たした役割は、計り知れないものがあり、なかでも、群馬の農民船津伝次平と、水田にその名を残したケルネルら2人の活躍はめざましいものでした。
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青葉台二丁目周辺は、別名西郷山とも呼ばれています。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道(じゅうどう)が付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからです。
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目黒といえば、さんま・タケノコ・不動尊で知られていますが、これらは徳川歴代将軍の鷹狩りと深いかかわりがあります。
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現在、東京大学教養学部のあるあたりの駒場野は、江戸時代には人の背丈ほどもある笹が一面に生えた広大な原野で、野鳥やイノシシがたくさん生息していたといわれています。