更新日:2016年3月4日

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歴史を訪ねて 駒場野一揆

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

駒場野一揆

嘉永6年(1853年)6月、浦賀に現れた黒船は、天保の改革に失敗し傾きつつあった江戸幕府の土台を、一層揺るがすことになった。開国は、輸出の急速な伸びによる物価騰貴を招き、対外政策における幕府の無力さが人びとを不安にさせた。幕府は、もはや町人や農民の不満を押さえる力をもたなかった。

江戸近郊の野菜の生産地目黒も、時代の動きに無関係ではなかった。農民たちが竹やりを持って、幕府の役人に立ち向かうという事件もあったのである。

「駒場野景色図」

世情、まさに騒然

幕末の物価上昇はすさまじかった。文久3年(1863年)には小売百文につき5合買えた米が、慶応2年(1866年)には1合5勺という具合だった。ほかの物価も同様で生活苦は深刻だった。耐えかねた庶民の不満は、外国人への襲撃や、一揆、打ち壊(こわ)しとなって表れた。

幕末の打ち壊しの様子

慶応2年5月、品川宿に発した打ち壊しは、翌6月には牛込・四谷・本所などへと広がった。町奉行所には「御政事売切申候」と落書きされたという。この打ち壊しは武州一帯に連鎖反応を引き起こした。「武州世直し一揆」と呼ばれるこの一揆は、武蔵・上野・下野・相模・常陸の5カ国の農民ら十数万人が蜂起した大規模なものだった。同年8月には、老若男女が「ええじゃないか」と唱えて踊り回るという混乱が広がった。世情はまさに騒然としていた。

異国調練伝習場所設置の件

黒船来航で、遅ればせながら軍事力増強の必要性を痛感した幕府は、フランスにその範を求めた。幕末に、築地など3か所に建てられた講武所には、武術に秀でた者が集められ腕を磨いた。そのけいこぶりは、死者が出るほど激烈なものだった。同時に、フランス人の指導により、西洋式の調練も行われた。

慶応3年5月、フランス軍事教官シャノワンは、幕府に建白書を提出した。内容は、従来の調練場が手狭なので、大演習や射撃訓練は深川越中島か駒場野でやりたいというものだった。駒場野は、三田村の火薬製造所の火薬を試すにも好都合な場所だった。駒場野は、古くは上目黒村・中目黒村・下目黒村の入会秣(いりあいまぐさ)場であったが、8代将軍吉宗が鷹場と定めてからは武術訓練の場として使われていた。幕末には軍事教練や砲術訓練がしばしば行われていたので、幕府はこれを拡張しようと計画したのである。

シャノワンの建白から3か月後の8月、駒場野西方の実地調査が行われた。これは農民にとって寝耳に水の驚きだった。囲い込みとなればなんの補償もなく、農民たちにとって死活問題である。幕府の力が強大なときなら泣き寝入りもしただろうが、農民たちの目にも幕府の衰えは明らかだった。

8月14日、下北沢村、代田村、幡谷村に実地視察があり、世田谷村羽根木の農家19軒を囲い込むという風聞があった。しかし、事態の詳細は知らされず、なんの補償も示されなかった。不安になった農民たちは仕事も手につかず、寄り集まって今後のことを話し合っていたが、ついに同月20日、駒場野の番人、平助の家を打ち壊すという実力行使にでたのである。

農民、町人らの激しい抵抗

農民の抵抗に、幕府は即、計画を変更して駒場野の東方、上豊沢村、中豊沢村、道玄坂町、下渋谷村へ拡張する方針を決定した。しかし、そこでも農民や町人が断固として抵抗したのである。そのありさまは、世田谷領代官であった大場家の古文書に知ることができる。

「場所御見分可被遊旨被仰出候処、右村町百姓・町人共惑乱竹鎗鉄砲等携口々江群集螺吹鳴シ鯨波ヲ揚相図いたし空砲相発、御出役様方場所御立入相成候ハゝ可及乱妨手筈故同日御見分御見合、追々村役人共より相宥メ漸々昨六日荒増御見置ニ相成」

「駒場原を演習場にするために、民家200軒余りを取り払うという話は取り止めになったというので一同安心していたが、今度は、駒場原から上・中豊沢村、山(「羽」か)根沢村、道玄坂町、下渋谷町あたりを調査するという。百姓、町人たちは動揺し、竹やり・鉄砲を手に集合してホラ貝を吹き、鬨(とき)の声をあげて空砲を撃ち、役人が立ち入ればやっつけるという。それでその日は見合わせ、ようやく6日に調査した」という内容である。周辺十数村の反対にあって、結局、幕府は駒場野拡張計画をあきらめざるをえなかった。

その後、今度は板橋徳丸ヶ原の拡張を計画したが、これも周辺18か村3,000人の農民らの反対で実現しなかった。大政奉還は、駒場野の一件の2か月後、慶応3年(1867年)10月のことであった。翌年時代は明治に変わり、駒場野はやがて一大軍事基地に変ぼうしたのである。

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