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〒153-8573 東京都目黒区上目黒二丁目19番15号 電話 03-3715-1111(代表)案内図


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歴史を訪ねて 目黒の文学散歩 1

更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の文学散歩 1

本を読み進むうちに、ゆかりの地名や人名に出くわすと、格別の興味がわく。私たちのまち目黒も、素材として、また物語の背景として、幾つかの近代文学に登場している。それらの作品は、明治・大正・昭和と、時代の流れに沿って目黒の移り変わりを知る貴重な資料でもある。目黒が登場する文学を拾ってみることにしよう。

武蔵野を歩く

緩やかにうねる丘陵に、雑木林があり、野や畑が広がり、農家が点在する武蔵野をこよなく愛した国木田独歩くにきだどっぽ。明治31年の作品「武蔵野」には、心ひかれる武蔵野の水流のひとつとして、「目黒邊を流れて品海ひんかいに入る者」と、目黒川についての記述がある。当時、川は人びとの生活と密接に結び付いていた。

「稲が刈り取られて林の影が倒さに田面に映る頃ろとなると、大根畑の盛で、大根がそろそろ抜かれて、彼方此處水溜又は小さな流の潯で洗はれる様になると、野は麥の新芽で青々となつて來る。」

農民が流れのほとりで大根の土を洗う風景は、昭和の初めまで、よく見かけられた。

目黒不動のにぎわい

農村地帯であった目黒で、唯一にぎわっていたのは、目黒不動辺りであった。江戸時代の「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」にも紹介されているが、明治になっても、参拝する人は絶えなかったようだ。広津柳浪ひろつりゅうろうの明治33年の作品「目黒小町」は、次のような書き出しで始まっている。

「名物の筍飯は軒の幟を書替へられた。今は目黒も牡丹に客を招く時節となった。橋和屋を除けば、大黒屋内田屋さては角伊勢など、何れも妙齢の女の眉目美しきを粧はせて、節々の名物よりも此花に客を惹かうとするのである。」

同じく目黒不動に遊んだ正岡子規まさおかしきは、明治35年の作品「病床(牀)六尺」に、その思い出を書いている。子規は、同年9月19日に永眠した。

新名所、ビール工場

のんびりした農村も、少しずつではあるが変化していった。政府が強力に押し進めていた殖産興業政策により、目黒川流域にも、工場が建つようになった。明治20年、三田に創立された日本麦酒醸造会社は、明治39年に札幌麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社と合併して、大日本麦酒株式会社(現サッポロビール株式会社)となった。

田山花袋たやまかたいは明治43年の作品「新撰名勝地誌(東海道東部)」で、目黒を「東京市南郊の好散策地」として紹介し、大日本麦酒会社にも触れている。

「目黒村大字三田にあり。麥酒醸造の工場を有し、社内にては客のもとめに應じ、庭園にて生麥酒を賣る。山手線は惠比壽停車場に置けり。」

失われゆく自然

同じく花袋かたいの作でも、大正7年の「一日の行楽」には、次のような表現がある。

「目黒は今は開けた。すつかり郊外の町になつて了つた。昔は不動堂も甘藷先生の墓も、千代ケ崎の衣懸松も皆な田圃の中にあつて、秋は林に時雨が降つて通り、黄田遠く十里の外に連るといふ風であつたが、今では、さうしたラスチックな趣はもう何處にも見出すことが出來なくなつた。」

花袋かたいの目に映った変化は、明治末から大正初めに、目黒に幾つかの娯楽施設が誕生したせいもあるのだろうか。

明治40年、現在の下目黒四丁目、五丁目に目黒競馬場が開設され、大正4年年から5年には、「都会人に自然を」という目的で、中目黒五丁目に自然園が開園した。どちらも、今ではバス停にその名を残すのみである。明治・大正期に書かれた作品では、ほかに正宗白鳥まさむねはくちょうの「落日」「泥人形」、永井荷風ながいかふうの「大窪だより」「日和下駄」「断腸亭日乗」などに、目黒に関する記述がある。

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