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歴史を訪ねて 目黒の文学散歩 2
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の文学散歩 2
明治・大正の文学に登場する目黒は、緑濃い郊外として取り上げられていた。しかし、関東大震災を境に目黒は大きく様相を変え、駒場、緑が丘、自由が丘などがしゃれた住宅街として、昭和の文学の背景に登場するようになった。
震災から逃れて
関東大震災で焼け出された多くの東京市民は、命からがら郊外へと逃れた。歌人土岐善麿(ときぜんまろ)もその1人であった。歌集「緑の斜面」には、被災して下目黒へ逃げのび、この地を新居と定めたことが詠まれている。
下目黒へ「あへぎつつ 逃るる路の 炎天に 水くれし子を 忘るるなかれ」
地を下目黒に定めて「大地に 耳おしあてて 眞清みづの 底の流れを 聞きとめにけり」
人口の増加につれて目黒は住宅地としての体裁を整えていった。碑衾村(ひぶすまむら)は大正12年、目黒町は14年に上水道を引いた。郵便局の開設、目黒川改修、土地区画整理や道路の整備が行われたのもこのころであった。
緑の中の新居
新しい土地での生活は、歌人の創作意欲を刺激したようだ。土岐善麿「新歌集作品1(正しくはローマ数字の「1」)」には、昭和4年から8年ころの新居の周辺を詠んだ歌が収められている。
昭和4年に竣工した旧前田家本邸
3 競馬「迫り、迫り、迫りくるもの、いまこそ追ひぬくものを見返るまもない」
5 住宅地開拓「穂すすきが刈られポプラが伐られ、うっすりと露じめりの明るい空地」
10 環状道路「あぶなくかけたブレエキの前に深夜の雪がただ渦をまいてゐる」
昭和7年、5郡82か町村合併により、目黒町と碑衾町は、東京市目黒区となった。同年、目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催され、大いににぎわった。しかし、翌8年、競馬場は府中へ移転してしまった。
戦火は目黒にも
昭和14年に始まった第2次世界大戦で、日本の戦況は日ごとに不利になり、区内の国民学校の生徒たちは、福島県や山梨県へ集団疎開した。目黒も幾度か空襲に遭い、多くの被害を出した。獅子文六の「おじいさん」に、当時の様子が伺える。
「目黒から渋谷までの省線沿線は、生々しい焼跡が続き、単に、人間の住む家が灰になったばかりでなく、初夏の旺盛な生命に溢れた樹木や、草や、土が、無惨に焼け焦げていた。旧市内とちがって、この辺には、まだ緑の色が豊かだったのに、それが、一夜で、火山の熔岩地帯に変貌したことが、印象を強くした。」
陽のあたる坂道
石坂洋次郎の「陽のあたる坂道」が読売新聞に連載されたのは、昭和31年からであった。主人公倉本たか子は、O大学国文科の三年生。緑が丘に住む田代家の娘くみ子の家庭教師として赴くが、それぞれに一癖ある田代家の人びとと深くかかわることになる。
「おっかなびっくりで合唱に加わっているたか子は、それとなくみんなの顔を眺めまわしながら、不思議な感動にうたれた。こういう家族って、めったにあるものではない。なにかしらそらぞらしく、なにかしら立派なのである。家族の一人ずつが、ちぢこまっていないで、幹や枝を一っぱいに張った樹木のように、ガッシリと生きている感じがする。」
自由が丘に住む婦人たちの日常を書いた武田繁太郎の「自由ヶ丘夫人」は、昭和35年の作品である。作者は後書きで「戦後のこの国の経済的繁栄の恩恵をうけた新しい階級」である「中間階級」を描こうとしたと述べている。
駒場を背景とした作品としては高木彬光の「誘拐」、源氏鶏太の短編集「銀座恋い」の一編、「経済ラーメン」がある。
文学の散歩道
日本近代文学館周辺の地図
目黒の文学散歩に忘れてならないのが、日本近代文学館。近代文学のコレクションが充実している。
- 所在地 目黒区駒場四丁目3番55号
- 電話番号 03-3468-4181
- アクセス 井の頭線駒場東大前駅(西口)下車、徒歩7分
- ホームページ 日本近代文学館(入館料、休館日などはこちらをご覧ください)
お問い合わせ
区民の声課 区政情報コーナー
電話:03-5722-9480