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歴史を訪ねて 目黒のタケノコ

更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のタケノコ

「竹の秋」という言葉がある。春ともなれば、木という木、草という草が若葉を出すのに、竹は古い葉が黄ばみ始める。「竹の秋」は、だから春の季語である。

昭和の初めころまで、目黒には竹林があちこちにあった。わざわざ京都へ足を運ばなくても、居ながらにして竹林を渡る風の音を楽しめたわけである。もっとも、目黒の竹林は風流のために植えられたわけではない。農家にとって竹林は、タケノコを栽培するためのものであった。タケノコは重要な農産物だったのである。

目黒式タケノコ栽培法

目黒のタケノコ栽培の最盛期は大正時代。「太く、柔らかく、おいしい」と三拍子そろった「目黒のタケノコ」は、目黒式といわれる独特の栽培法によるものであった。目黒式は、地下茎を掘り起こして、深く掘った溝に埋め直し肥料を施す方法で、目黒の土質に合っていた。

タケノコの出盛りは4月下旬から5月上旬。このころになると、タケノコ栽培農家は、一家総出で、ときには人を雇って収穫した。柔らかいタケノコは、地上に出る前に抜かなければならない。そのために、竹やぶを竹ぼうきで掃き清め、地面のひび割れを探すのである。

「わたしはかけ出していって『あったよー』といってほそい竹の枝にめじるしの赤いきれのついているのをさしていきます。おとなたちが、それを堀りおこします。(中略)『でかいぞ、これはきょうの王様だ』といって兄ちゃんがもち上げたのは高さが二尺(60センチメートル)ぐらい下の方は兄ちゃんのからだぐらいの太さがありました。」(「目黒区郷土研究」269号「小さな文庫」より)

土を掘るにはタケノコヘラ、根元を切り離すにはタケノコノミという独特の農具を使った。収穫したタケノコは、仲買人の手で、神田や駒込などの青物市場へ運ばれていった。

「東京府志料」によると、明治5年の農産物収入のうち、タケノコによる収入の割合は、碑文谷村で2割弱、衾村で1割弱。上目黒村・中目黒村・下目黒村でも多くはないが採れた。手のかかるタケノコ栽培は、すべての農家で行っていたわけではないので、タケノコ栽培農家にとっては、かなりの収入だったと思われる。「タケノコが採れたら」「タケノコまで待ってくれ」という「タケノコ勘定」という言葉が戦前まであったという。

「孝竹院釈筍翁居士」

そもそも「目黒のタケノコ」の祖は、江戸鉄砲洲の海運業者、山路勝孝であるという。薩摩の藩邸より孟宗竹を幾株か分けてもらって戸越村の彼の別荘地に植えたのが初めといわれている。一説には、薩摩から直接取り寄せたともいわれる。ときに、寛政元年(1789年)(寛永5年とも)のことである。

戸越村後地うじろじ(現在の品川区小山一丁目、後地うじろじ小学校そば)に、子孫が建てた孟宗筍栽培記念碑には、次の句が刻まれている。

「櫓も楫も 弥陀にまかせて 雪見哉」(釈竹翁)

ちなみに、法名は「孝竹院釈筍翁居士」とか。

名物も今は昔

土質に合った栽培法によって、タケノコ栽培は戸越村から碑文谷村、衾村などへ広がった。「日本産物誌」(明治6年、伊藤圭介著)の武蔵部には、練馬大根や千住のネギなどと並んで、目黒のタケノコがあげられている。

「目黒のタケノコ」の名を広めるにあたって一役買ったのは、目黒不動前の料亭であった。角伊勢かどいせ・内田屋・大黒屋などの店が、「名物筍飯」として客を呼び、正岡子規ら多くの文人墨客も賞味した。

「目黒のタケノコ」発祥の地である品川の竹林は、大正時代にその多くが宅地化され、代わって世田谷が生産額を増やすようになった。目黒の竹林も、関東大震災を機にだんだん切り開かれていき、その後には鉄道が敷かれ、家が建った。今では、すずめのお宿緑地公園などにわずかに残るだけとなった。「目黒のタケノコ」は忘れられようとしている。

「目黒なる 筍飯も 昔かな」(高浜虚子)

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竹林やシイ・ケヤキの大木が残り、野鳥が多く生息しています。

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