更新日:2013年9月5日

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歴史を訪ねて 目黒区誕生 1

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒区誕生

東京府荏原郡目黒町と同碑衾町が合併して東京市に編入され、目黒区が誕生したのは昭和7年10月1日のこと。今日の目黒区に至る道のりには、多くの人びとの努力があった。目黒区誕生前夜から誕生までをたどってみる。

昭和11年設立時の区役所庁舎(上)と現在の総合庁舎(下)

膨張する東京市

明治中ごろの東京は、雨が降れば銀座の大通りさえぬかるみ、「田植えができる」とまでいわれるありさまだった。鹿鳴館で毎日のように舞踏会はあっても、道路や水道などはまだまだであった。

東京市が近代都市として整備され始めたのは、日清・日露と勝ち戦が続いて国力が増大し、近代国家の首府としての自覚が出てからであった。産業が興り、会社や工場が建って地方から人が集まってくると、東京はすさまじい勢いで膨張していった。目黒の人口が関東大震災を契機にいっきょに増加したことは知られているが、東京市15区の人口はそれ以前に飽和状態に近づき、人びとは周辺町村へあふれ出した。

周辺町村に居を構え、市内へ通勤する人びとが増えると、道路拡幅や水道敷設、小学校増設などが町村の急務となった。中でも学童の増加に伴う小学校建設は、町村財政の大きな負担となった。昭和6年末の目黒町の町債額の5割以上、碑衾町では全額が小学校の建築や復旧のためであった。このように町村に住み市内に通う「不在市民」が多くなると、東京市と隣接町村はもはや有機的に一体を成し、市郡の境は都市の発展にむしろ障害となっていった。

大正9年、都市計画法が6大都市に適用され、同11年には都市計画区域が告示された。東京市の場合、東京駅を中心に半径10マイル(約16キロメートル)、すなわち東京市15区と府下荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の5郡82町村、それに北多摩郡砧村と千歳村がその範囲であった。市内および第1から3圏に区分したうち、目黒町は第2圏、碑衾村は第3圏に属した。この区域決定により、隣接町村は大都市の構成員の地位を獲得したのである。また、後の市郡合併の範囲決定に大きな影響を及ぼすことになった。

市郡合併への熱気

市郡合併の声は当然のように起こっていたが、東京市が本腰を入れ始めたのは、関東大震災後の帝都復興事業が一段落し、昭和4年に東京市の都制実行委員会の報告書が出てからであった。東京市は、最終的には「都制」実現による自治権拡大を目指しており、その前段階として市域拡大を進めていたのである。報告書提出後、都制促進実行委員会は5郡を視察した。その結果、ともかく各郡町村とも合併に賛成であることがわかり、東京市と一体化することが将来の発展への道だという立場から、隣接町村は精力的な活動を開始した。以後の進展は目覚ましいものであった。

視察から間もない昭和6年6月23日、合併の意志を同じくした町村の代表者800余人が日比谷市政講堂(現在の日比谷公会堂地下にあった講堂)に集まり、「隣接町村併合促進同盟会」を発足させた。その中には目黒町と碑衾町の代表の顔もあった。演壇に立った者は熱弁を振るって合併促進を説き、会は合併促進の宣言と決議を可決した。翌日、会長はじめ役員らは、東京市長・市会議長・府知事に陳情し、内務大臣に決議文を郵送した。

同年8月、東京市は「臨時市域拡張部」を特設、新市域の具体的な範囲を示した6つの案を発表した。12月には市会が全会一致で合併意見書を採択した。

宣言

我等は都市計画的なる諸施設の完備せる大東京の実現を希望する。(中略)更に今後の大東京には、偉大なる使命がある。帝都としての大面目を具有すべきは勿論国際繁栄都市としての容相を完備しなければならない。(中略)即ち我等は此処にその前提として小異小利害を一擲し、東京市と隣接町村との併合の即時断行を熱求して已まないものである。

昭和六年六月二十三日

隣接町村併合促進同盟会

藤沼府知事の決断

市町村合併決定の権限は府知事にあった。府知事が内務大臣に許可申請を提出し、許可を得て合併が決定する。肝心の東京府の態度は、第28代府知事に藤沼庄平を迎えてから急に進展を見た。

昭和6年10月、府会は合併促進の決議をし、年が明けてから東京市・東京府・内務省の三者会合が重ねられた。藤沼府知事が5郡82町村の合併を決意し、内務大臣あて許可申請を提出したのは、昭和7年5月23日のことであった。翌24日には許可が下りて、ついに、10月1日の市郡合併が決定した。待望の目黒区が誕生することになったのである。

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