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更新日:2013年9月20日

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歴史を訪ねて 目黒の野菜づくり

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の野菜づくり

昭和30年代ころの目黒は、まだまだ畑があちこちにあり、野良仕事に精を出す農夫の姿が見られた。しかし、急速に進む都市化の中で農地は減少し、今日では碑文谷や緑が丘の奥で、わずかながら昔の面影をとどめているにすぎない。平成17年の調査で、目黒の農家は14軒であるが、専業農家4軒を残して、あとはすべて兼業農家である。

サレジオ教会から見たすずめのお宿付近(昭和20年代後半)

かつて都心への野菜の供給地として、大きな役割を果たした目黒の野菜づくりを訪ねてみよう。そこには畑や野菜洗い場で、汗水流して働いた目黒の農民の姿がある。

商品作物として栽培

目黒で商品としての野菜づくりが始まったのは、江戸時代にさかのぼる。宝暦12年(1762年)の衾村、同13年の中目黒村の「村指出銘細帳」によると、まだ農産物の一部ではあったが、大根やナス、ウリ、菜などを江戸や渋谷辺りへ出荷したことが記録されている。

目黒地域の農産物(昭和7年)

しかし商品として多く市場へ出荷されるようになったのは、明治中期以降。政府の勧農政策によって、近郊農村の野菜栽培が盛んになってからである。春のタケノコに始まり、夏はナス、マクワウリ、キュウリ、トマト、スイカ、秋は大根、ネギ、冬は葉物というように、畑を効率よく利用した輪作が行われ、出荷量は多くなっていった。特に第1次大戦末期から関東大震災、昭和の初めにかけての野菜づくりは、かつてない好況に恵まれ、活況を呈していた。

しかし、その後、住宅、工場が建ち始め、耕地面積は減り、農業としての環境が悪化したこと、交通が発達して、近県の農業が有力な競争相手として登場してきたことなどにより、目黒の野菜づくりは減少の一途をたどることになったのである。

都市化で失せた洗い場

ところで、野菜の輪作が盛んになると、農民の労働は以前に増して厳しくなり、朝は太陽の出る前に起き、夕方は手元が暗くなるまで近くの川で野菜を洗い、夜は明朝の出荷の準備に追われる過酷な日々が続いたという。特に、厳しい冬の川での野菜洗いで、手はアカギレだらけになった。それでも、都心住民の食卓へ運ぶ野菜の出荷に間に合わせるために最大の努力を払った。

かつて田畑を潤し、野菜の洗い場でもあった区内の川は、社会的条件の急激な変化の中で大きくその様相を変え、いまでは見る影もない。現在では井戸水や水道水に頼るほかないが、緑が丘の高瀬さんは「大正の末ごろまで、呑川には洗い場が沢山ありました。しかし河川改修で使えなくなり、湧き水を利用した洗い場をつくりました」

区内にあった野菜洗い場

農業の衰退とともに、人びとに忘れ去られる運命にある、野菜洗い場である。

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