このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
目黒区住みたいまち、住み続けたいまち目黒
  • トップページへ
  • 携帯サイト
  • multilingual
  • サイトマップ
〒153-8573 東京都目黒区上目黒二丁目19番15号 電話 03-3715-1111(代表)案内図


サイトメニューここまで

本文ここから

歴史を訪ねて 「碑文谷(ひもんや)」の起源を探る

更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

碑文谷ひもんや

碑文谷ひもんや。この珍しい地名の起源についてはいろいろな推測がなされているが現在までひとつの説を確定するには至っていない。ただ、応永32年(1425年)の「日運記」の中に碑文谷ひもんやという地名が著されている。

碑文を書いた石のある里

現在、通説となっている「碑文石ひもんせき」説は、碑文谷八幡宮に保存されている「碑文石ひもんせき」にまつわるものである。この石は高さ75センチメートル、幅45センチメートルくらいで、中央に「大日」、左右に「勢至」「観音」の梵字ぼんじが刻まれている。

「碑文石」説は、村内の鎌倉街道の傍らに梵字ぼんじを刻んだ碑があったが、たたりのため土中に埋めたと「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」「帝国地名辞典」に記されていることなどからいわれるようになった。

また、これら三文献と貞享4年(1687年)の「江戸惣鹿子」には、忠玄法師(江戸名所図会では日源上人とある)が卒塔婆に碑文を書いて、この地に埋めたために起こった名だとも記されている。

碑文谷とは

これとは別に、円融寺えんゆうじにまつわるものとする説もある。

円融寺えんゆうじは天台宗の寺として仁寿3年(853年)に開基されたといわれ、弘安6年(1283年)には日源上人によって、日蓮宗妙光山吉祥院法華寺と改められた。その後、天台宗に復し、現在の円融寺えんゆうじとなった。

円融寺えんゆうじには、天正13年(1585年)、法界塚付近の土地が同寺へ寄進されたときの書状があるが、その1行目では碑文谷法華(花)寺と記しながら、終わりの方では、武蔵国ひものや郷中と書いてある。また「江戸図屏風」には、桧物屋法華寺と桧物屋御鞭打(袋竹刀を振って打ち合う騎馬戦)が描かれている。天正19年(1591年)の「寺領寄進状」のように、武蔵国荏原郡桧物屋之内と記されている例もある。

しかしながら、「ひものや」「桧物屋ひものや」と書かれた文書は数が非常に少く、今までに残っている古文書の中では「碑文谷」という文字が一番多く使われている。これは、人々が「ひものや」あるいは「ひもんや」と発していた言葉を表記する際、「碑文谷」「ひものや」「桧物屋ひものや」という文字があてられたと考えることができる。従ってこの3つの文字が意味するところは全く同じものを指し、その中から一番使用される数が多かった「碑文谷」が地名として残ったのではないだろうか。

お問合せ

このページは
区民の声課 区政情報コーナーが担当しています。

所在地 〒153-8573 目黒区上目黒二丁目19番15号

電話 03-5722-9480

本文ここまで

サブナビゲーションここから

歴史を訪ねて 南部地区

知りたい情報が見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下 奥付けです。