更新日:2024年2月26日

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歴史を訪ねて 目黒競馬場 2

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

馬券禁止に観客ソッポ

明治41年に馬券が禁止されて、各地の競馬場は閑古鳥が鳴く始末であった。政府は、こうした競馬場を統合させ補助金を与えて、引き続き馬の改良・増産を図った。目黒競馬場を開設した日本競馬会も、東京周辺の競馬会社6社と合併して、明治43年に東京競馬倶楽部(くらぶ)となった。この合併によって、川崎、板橋、池上の競馬場は廃止され、目黒だけがそのまま残された。

その年の7月、馬券発売禁止の下で開催された同倶楽部(くらぶ)の第1回競馬は、政府補助による賞金の獲得を各馬が競うという内容で、お金を賭けられない観客としては興味をそがれるものであった。4日間の開催で、入場者は500人にも満たなかったという。その裏では、人びとの射幸心は抑えがたく、観覧中にひそかに馬券を売買したとして、著名人など13人が検挙される事件が、この第1回競馬で起きている。

人気回復に商品券も登場

その後、入場者、数百人足らずという沈滞ムードからなんとか抜け出そうとした目黒競馬場では、大正3年、勝馬の的中者に、デパートの商品券を贈呈するという余興を始めた。この趣向は、たちまち1万2,000人を超える観客を呼び込み、馬券が復活するまでの間、観客の興味をつなぎとめたのである。

やがて馬券の効用を見直した政府は、馬券発売を認める「競馬法」を制定した。大正12年同法の下で初めて開催された競馬は、関東大震災による惨事の直後にもかかわらず、1万6,000人を超す入場者を集めた。さらに翌年秋には、優に2万5,000人の入場者を数えた。馬券復活で目黒競馬場は、再び活気を取り戻したのである。

このような盛り上がりのなかで、4歳馬の日本一を決める第1回「日本ダービー」が、昭和7年4月24日、この目黒競馬場で行われることになったのである。

第一回ダービーに沸く

「緑濃き葉桜の下に、十九頭の馬とユニフォーム華々しい騎手がずらりと並んでおります。見渡したところ日本全国の名馬が競い、十九頭いずれが先陣を争うか、距離は二千四百メートル、ちょうどこの馬場から見まして半哩(まいる)(約800メートル)前方にただ今並んでおります。いよいよスタートです…」

東京中央放送局(現在のNHK)は、第1回「日本ダービー」の様子をラジオで全国に伝えた。当日、あいにくの雨模様のなか、晴れの栄冠を勝ち取ったのは、下総(しもうさ)三里塚産のワカタカ号で、単勝式払戻金は39円であった。

当時、馬券は1枚20円で、1レースに1人1枚しか買えなかった。平均サラリーが60円から70円だったというから、ぜいたくな遊びであった。観客の中には、何人かでお金を出し合って1枚の馬券を買い、見事に予想が的中した場合に、馬券を持っている者に逃げられては大変と、互いにたもとをしっかりと握り合って歩く姿も見かけられたという。入場料は、1等席が5円、2等席が2円。1等席には羽織・袴または洋服を着用しなくては入場できず、そのため競馬場近くには、貸衣裳屋もあったという。

数々の話題を残しながら…

ところで目黒競馬場は、競馬ファン以外にも親しまれていた。明治44年に、米国の飛行家マースが模範飛行をこころみたり、大正4年にはわが国で初めてという自動車レースが行われるなど、いろいろな催し物が繰り広げられたのである。しかし、押し寄せる宅地化の波には勝てず、昭和8年春季、第2回「日本ダービー」開催を最後に、府中へ移転することになったのである。

元競馬場周辺案内図
元競馬場周辺案内図

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