更新日:2024年3月25日

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歴史を訪ねて 林業試験場

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

林業試験場

昭和53年に林業試験場は筑波研究学園都市に移転し、跡地は、平成元年都立林試の森公園として開園、緑にあふれる憩いの場となっている。

森林に漂うすがすがしい香りには、殺菌作用があり、いろいろな病気の治療に効果があるという。森林に浸って病気が治せるかどうかは別としても、「緑」を見ると目が休まり、心も休まることは、だれでも経験的に知っている。

国土面積の3分の2が森林、という国に住みながら私たちの周りには緑が少ない。令和5年の目黒区民1人当たりの公園面積は1.75平方メートルである。その目黒にあって、農林水産省林業試験場は、全国の支場や実験林などを統轄し研究を進めていた。


林試の森公園入口

目黒の地に78年

林業試験場の始まりは、明治11年、東京府北豊島郡滝野川村西ケ原におかれた樹木試験所である。目黒、品川にまたがって山林局目黒試験苗圃(びょうほ)として発足したのは、明治33年のことである。荏原郡目黒村大字下目黒字谷戸と同郡平塚村大字戸越字鎗ヶ崎の4万5000坪余りの土地に、研究施設が建てられ、西ヶ原で育てられていた樹木が移植された。移植の時には、地元目黒の火消しの組頭たちもひと肌脱いだという。

林業試験場構内図のイラスト

その後、明治38年に山林局林業試験所、同43年に山林局林業試験場と改められ、昭和53年の移転まで、78年間、その地にあった。明治から大正にかけて、目黒には多くの研究所が設立された。畑や野原が大部分を占めていた目黒は、土地を求めやすく、さらに東京の市街地から近からず遠からず、というのが研究所の立地条件にかなっていたのであろう。

昭和28年発行の「目黒区誌」には、北里研究所目黒支所、津村研究所、石炭綜合研究所、国立予防衛生研究所など、18の研究所が挙げられている。大正4年から昭和35年まで、現在のNTT唐ヶ崎ビルの土地にあった北里研究所目黒支所では、免疫の実験のために馬や牛、豚などが飼われていた。

森林のすべてを研究

林業試験場は、目黒の本場のほかに、北は北海道から南は九州、小笠原まで、全国に15か所の支場・分場・試験地などを持っていた。研究内容は、林業経営・造林・森林土壤・森林保護・林業機械化・防災・木材・林産化学と、森林に関するすべての分野に及んでいる。例えば、「マツ属花粉の人工発芽試験」「殺鼠毒餌の改良に関する研究」「材木の冠雪害危険地域」「カラマツ落葉病に関する調査研究」等々。

研究機関としての性格から、一般の人が入れるのはごく限られていたため、住民にはあまりなじみがなかった。しかし、林業試験場は、私たちに貴重な緑を残してくれた。

残された貴重な自然

開設当時、試験場の周りは、麦畑、ススキの原、そして竹林という具合だった。林業試験場70周年を記念して出版された「めぐろの森」には、「林業試験場を抜け出したキツネが麦畑の中を身を隠しながら縫って戸越方面の農家の養鶏を襲ったこともしばしばあり、(中略)林業試験場の山から出てきたと思われるノウサギが二子道(今の目黒通り)にまで現れ、夜出てきて朝帰るという光景も見られた」と、牧歌的な風景がつづられている。

しかし、林業試験場にも都市化の波は押し寄せ、昭和40年代、50年代には大気汚染のために枯れたり、元気がなくなったりする木も出てきた。それでも昭和49年の調査によると、ブナ、クヌギ、ケヤキなどのほか、ハクショウ(白松)、ポーポーノキなどの珍しいものを含め四百種余りの草木が茂り、そこに羽を休める鳥は77種類観察された。

林試の森公園へのアクセス

  • 所在地 目黒区下目黒五丁目37番 林試の森公園管理事務所
  • 電話番号 03-3792-3800
  • 東急目黒線・都営三田線・東京メトロ南北線「武蔵小山」徒歩10分
  • 交通 JR渋谷駅から東急バス(恵比寿経由)五反田行き(72系統)「林試の森入口」下車 徒歩1分


林試の森公園周辺の地図

お問い合わせ

生涯学習課 文化財係