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目黒の坂 鉄飛坂(てっぴざか)

更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 鉄飛坂

鉄飛坂てっぴざかは平町ニ丁目と大岡山一丁目の境、呑川遊歩道の中里橋から東へ上る急坂で、坂上の北側に帝釈天たいしゃくてんを祭る小堂がある。明治25年編さんの「衾村々誌」品川道の条に、「鉄飛坂てっぴざかあり、運輸便ならず、其坂下に呑川あり、之に架するを茶屋橋という」とある。この橋名は、いつのまにか中里橋と変わった。

「鉄飛」という一寸変わった呼び名から、何かいわれがありそうに思われるが、案の定、いろいろな説がある。

その一は、徳川幕府の初期時代、佐渡金山奉行であった大久保石見守長安が、ポルトガル人「ヒモンヤス」「テッピョウス」の2人に、鉱山採掘の方法を聴問し、佐渡金山の大改善を行おうとしたことがあった。このことは「慶長切支丹怪秘記」という書物にでているそうだが、確説であるかどうか疑わしいようだ。また、この2人の名が今の碑文谷・鉄飛の起源であるとも記されているようだが、碑文谷・鉄飛という地名は、はるか以前からあり、これも当てにできない。

そのニは、奥州征討「後三年の役」に従軍した碑文谷の豪族、碑文谷太郎道政が捕虜「鉄の飛」を連れ帰って、この辺に住まわせたということによるもの。

その三は、鎌倉時代、武蔵国の荏原一帯を領していたのが荏原太郎義利という領主であり、その家臣に鉄飛十郎兵衛という人がいて、今の鉄飛坂の上あたりに館を構えていた名主であったということである。鉄飛の館があったから、里人がその名を坂名にしたという。

その四は、元寇襲来のときの金沢殿着到帖に鉄飛五郎の名がみえることによる。

なお、「全国方言辞典」によれば「テッピ」とは「山頂」「てっぺん」などのなまりであるとし、「綜合日本民俗語彙」には、比較的高所にある屋敷を「テッピ」と呼ぶ例があったと記してある。

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