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茶屋坂と「目黒のさんま」

写真(名所江戸百景より「目黒爺ヶ茶屋」)
名所江戸百景より「目黒爺ヶ茶屋」
写真(旧目黒公会堂のどんちょうから)
旧目黒公会堂の緞帳から

茶屋坂は江戸市中から目黒に入る旧道のひとつで、富士の眺めが大変よいところでした。坂の上に、一軒の茶屋があったことからこの名がついたといわれています。当時、目黒を中心に将軍の狩り場があり、徳川三代将軍家光は、鷹狩りに来るたびにこの茶屋を訪れたそうです。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を気に入り、「じい、じい」と話しかけたため、この茶屋は「爺ヶ茶屋」と呼ばれるようになりました。
こうした史実を背景にできたのが、落語「目黒のさんま」です。目黒に鷹狩りに来た殿様が一軒の農家でひと休み。そこで生まれて初めて食べた焼サンマのおいしさにびっくり。この味が忘れられず、後日お城でサンマを所望しました。家来は気を利かせ、骨を取り除き、蒸して脂を抜いたサンマを差し出したところ、殿様はひと口食べて首をかしげ、「このサンマはどこから取り寄せたのじゃ。」家来が「日本橋の魚河岸でございます。」と答えると、殿様はすかさず「それでまずいのじゃ。やはり、サンマは目黒に限る。」お後がよろしいようで…。
この落語は、明治24年に噺家・禽語楼(きんごろう)小さんが演じたといわれています。

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特産品のタケノコとすずめのお宿

写真(すずめのお宿緑地公園)
すずめのお宿緑地公園
イラスト(タケノコのイメージ)

江戸後期に碑文谷一帯で広まったタケノコ栽培は、独特の栽培法や専用農具の考案もあって、明治の初め頃には、練馬の大根や千住のネギと並ぶ特産品として知られていました。その名を一躍有名にしたのは、目黒不動門前の料亭名物「筍飯」で、”太く、柔らかく、おいしい”と「目黒のタケノコ」は評判を呼びました。
現在では「すずめのお宿緑地公園」の竹林が当時の面影を残すのみとなりましたが、昭和の初めには数千羽ともいわるスズメのねぐらになっていて、朝はいっせいに飛び立つスズメの群れで、あたり一帯が暗くなったといわれています。
〜目黒なる筍飯も昔かな〜 高浜虚子

江戸の行楽地「目黒のお不動さん」

写真(江戸自慢三十六景より「目黒不動」)
江戸自慢三十六景より「目黒不動」

徳川三代将軍家光の帰依を受けて、五十余棟に及ぶ伽監が復興完成し、宏大華麗な寺になったといわれています。以来、幕府の保護を受け、歴代将軍をはじめ江戸庶民の信仰厚く、江戸近郊の最も有名な参詣行楽地のひとつとなり、江戸から明治、大正にかけて繁栄し、門前町もにぎわいました。
江戸市中からの道すがらには、富士見の名所であり「夕日の岡」として名高い行人坂や広重の描いた太鼓橋などの景勝地のほか、蛸(たこ)薬師と呼ばれる成就院、山手七福神のひとつ蟠龍寺、さらに少し足を伸ばせば名刹祐天寺もあり、人気の観光コースとなっていました。

雅叙園の百段階段

写真(百段階段)
百段階段
写真(菱形模様の組子障子)
菱形模様の組子障子

昭和6年に料亭としてオープンした目黒雅叙園は、やがて館内の絢爛豪華な装飾などにより、“昭和の竜宮城”と呼ばれるようになります。 平成3年に一部を残して建て替えられましたが、現存する旧三号館には、斜面を利用して建てられた各層の六室を結ぶケヤキの百段階段、数百人の職人の手による螺鈿(らでん)細工や彫刻、各室の襖や欄間の日本画など、当時の姿が残されています(特別な場合を除き、公開されていません)。宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」の舞台“湯屋”のモデルともいわれています。

馬頭観音と元競馬場

写真(目黒競馬場跡の碑)
目黒競馬場跡の碑(下目黒4-11)
写真(中目黒のばとう観音/目黒銀座観音)
中目黒の馬頭観音(目黒銀座観音)

馬頭観音は、江戸の半ば頃になると馬を守り、死後はその菩提(ぼだい)を弔う観音様とされ、倒れた馬を埋めた場所や道の辻に、農民や馬を扱う人々が馬頭観音を建てて供養し、あわせて馬の無病息災を願いました。目黒は古くから馬との関わりが深いことから、多くの馬頭観音が残っています。
明治40年に開設され、昭和7年に第1回日本ダービーが開催された目黒競馬場にも立派な馬頭観音がありましたが、昭和8年の移転とともに、府中(東京競馬場)に移されました。

目黒のビール工場

写真(恵比寿麦酒記念館)
恵比寿麦酒記念館
写真(恵比寿麦酒記念館/内部)
恵比寿麦酒記念館(内部)

明治22年、当時の三田村に日本麦酒醸造会社のビール工場が誕生し、ビールの製造が始まりました。このビールは「恵比寿麦酒(えびすビール)」の名で発売され、さわやかな飲み口が受けて人気を博しました。またビール工場から入る税金で、当時の村の財政は大いに潤ったそうです。
日本麦酒醸造会社は、幾多の変遷の末に、昭和39年、サッポロビール株式会社に生まれ変わりました。その後、長い間ビールを造り続けてきた工場も、昭和63年に千葉県船橋市に移転し、現在ではオフィス、集合住宅、ホテルやショッピングモールなどが集まった「水と緑の街“恵比寿ガーデンプレイス”」として生まれ変わりました。恵比寿麦酒記念館ではビールの歴史や製造工程などを見学できます。