更新日:2013年9月24日

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文化財めぐり(三田・青葉台コース)

文化財めぐりは、2時間から3時間かけて目黒区内の文化財を見学して歩きます。平成22年4月25日(日曜日)に実施した文化財めぐりのコースを紹介します。

文化財めぐり(三田・青葉台コース)の行程

出発

9時30分 目黒駅出発

見学場所

  • 区立三田公園(千代ヶ崎(ちよがさき)の解説)
  • 陸軍境界石
  • 区立茶屋坂児童遊園(三田用水の解説)
  • 茶屋坂上(三田用水茶屋坂隧道跡(みたようすいちゃやざかずいどうあと))
  • 別所坂上(新富士跡(しんふじあと))
  • 鑓ヶ崎(やりがさき)交差点
  • 目切坂上(めきりざかうえ)(元富士跡(もとふじあと))
  • 猿楽塚(さるがくづか)
  • 西郷山公園(さいごうやまこうえん)

解散

12時 西郷山公園(さいごうやまこうえん)解散

文化財めぐり(三田・青葉台コース)の概要

このコースは、旧下目黒村から三田村、上目黒村とよばれた地域の東側を旧三田用水に沿って遡るコースです。

この地域は淀橋台という台地の上にあり、他の目黒の地域とは目黒川で区切られています。目黒川に沿った西側は急な崖で、東側は渋谷川に向かってゆるやかに下っています。この尾根状の台地の一番高いところを三田用水が流れていました。
また江戸時代のこの地域は、目黒地域の中でも人の居住は少なく寺社等も見られませんが、目黒川に沿って高台となっていることで、千代ヶ崎(ちよがさき)、鑓ヶ崎(やりがさき)など景勝地として知られ、江戸庶民が目黒方面に来る時は休息した場所でした。

三田用水は、今から350年ほど前、江戸時代初期に飲料用の上水として作られましたが、後に農業用水として利用され、さらに明治期以降、工業用水に転用され、恵比寿ビールを始め工場で活用されこの地域の発展を担ってきました。しかし、昭和49年にその流れが止まり、今ではその痕跡はほとんど見られません。

文化財めぐり(三田・青葉台コース)の見学場所の解説

1 千代ヶ崎(ちよがさき)

目黒一丁目、三田三丁目あたりは千代ヶ崎(ちよがさき)と呼ばれ、景勝地として知られていました。

南北朝時代(1336年から1392年)の頃、南朝の武将新田義興(よしおき)の館がここにありました。義興(よしおき)の側室(そくしつ)千代は、義興(よしおき)戦死の知らせを受け嘆き悲しみ、庭の池に身を投げました。千代を哀れんだ人々が池を千代が池と呼び、このあたりを千代ヶ崎(ちよがさき)と呼んだという言い伝えがあります。

2 陸軍境界石

区立茶屋坂児童遊園から目黒三田通りに向かう道(三田2丁目5番22号)には、「陸軍」と記した石柱(せきちゅう)が階段から30センチほど頭を出して残っています。

記録がなくはっきりしませんが、明治13年(1880年)に現在の防衛庁技術研究所の位置に完成した目黒火薬製造所から、現在の白金自然園の地にあった火薬庫まで、製造した火薬を運搬した軍用軌道の跡と思われます。

3 三田用水

三田用水は、当初、白金方面の飲料水確保を目的とした上水として、江戸初期の寛文(かんぶん)4年(1664年)につくられました。

下北沢村で玉川上水から分水し、幅一間(いっけん)(約1.8メートル)ほどの水路で代々木、中渋谷、上目黒、中目黒、下目黒、三田、白金等の各村を二里(約8キロメートル)ほど流れ、白金猿町(しろがねさるまち)(現在の港区高輪台)のあたりで木樋(もくひ)により地中に入り、芝・赤羽橋あたりまで流れていました。流域の村々はこの水を灌漑用水として利用することを許され、恩恵に浴していました。

しかし、享保(きょうほう)7年(1722年)に三田上水が廃止となったため、農民は灌漑(かんがい)用水に困窮することとなります。幕府に再開を懇願し、享保(きょうほう)9年(1724年)に農業灌漑(かんがい)を目的とした用水として再使用が許可されます。三田用水は飲料用の玉川上水から分水しているので、渇水期には幕府の規制により取水が制限されました。このため農業用水の不足が村の争いにならないよう、普請や堀さらい、水の割当てなどの管理を流域の14の村が共同で行いました。

また、三田村には大名、旗本(はたもと)のかかえ屋敷などが多くあり、それらの庭には三田用水を引き込んで池や滝が作られ、中でも千代ヶ崎(ちよがさき)の松平主殿頭(まつだいらとのものかみ)の庭園は有名でした。

明治以降は流域の村が水利組合を結成し用水の管理にあたりますが、近代化の波が押し寄せ明治中期に工業用水への転用が進み、関東大震災以降は農業用水としての役割は失われます。

昭和27年(1952年)に水利組合は法定解散組合となり、昭和49年には東京都が取水口を閉鎖します。用水はその後の開発で取り壊され、現在は水路の境界石などがわずかに残っています。

4 新富士跡(しんふじあと)

別所坂上(目黒区中目黒二丁目1番)は、かつて幕臣(ばくしん)の近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)の別邸があった場所です。

別邸の庭に、富士を望むように文政(ぶんせい)2年(1819年)に建てられたのが新富士(しんふじ)と呼ばれた富士塚です。昭和34年(1959年)に取り壊されましたが、富士塚の登山道に置かれていた記念碑が現在隣接する区立別所坂児童遊園に移され保存されています。

5 元富士(もとふじ)跡

目切坂上(めきりざかうえ)(目黒区上目黒一丁目8番)に、文化(ぶんか)9年(1812年)に丸旦講(まるたんこう)という富士講によって富士塚が築かれました。

新富士(しんふじ)より7年先にできたため、元富士(もとふじ)と呼ばれました。高さは12メートルほど、山頂には浅間神社(せんげんじんじゃ)の祠が置かれ、6月の山開きには山頂から餅投げが行われ、露店も出て大いに賑わったそうです。

明治11年(1878年)岩倉具視の別邸となり、石祠、石碑などは取り払われ、大橋氷川神社に移されました。さらに東武鉄道社長の根津嘉一郎邸となり、昭和14年(1939年)改築の際に塚も取り払われ、当時をうかがえるものは残っていません。

6 猿楽塚(さるがくづか)

目黒区、渋谷区の境(渋谷区猿楽町29)にあり、直径20メートル高さ4メートルほどの主墳と、直径12メートル高さ2メートルほどの副墳の2つからなっています。6世紀から7世紀頃の古墳と思われますが、調査がされておらず詳細は不明です。高台にあり見晴らしがよかったので、昔は物見塚とも呼ばれていました。

名前の由来は、鎌倉時代に源頼朝が奥州征伐のおり、この地で休憩し兵士の士気を高めるため猿楽を催し、戦勝(せんしょう)を祈願して猿楽に用いた用具を埋めて塚を築いたという言い伝えによります。

7 西郷山公園(さいごうやまこうえん)

明治維新の立役者西郷隆盛(たかもり)は新政府に要人として迎えられますが、明治6年(1873年)の征韓論争で職を辞します。弟の西郷従道(じゅうどう)は、政府を辞した兄隆盛(たかもり)の東京での生活拠点として現在の区立西郷山公園(さいごうやまこうえん)(青葉台2丁目10番28号)一帯の土地を入手します。しかし、隆盛(たかもり)はここに住むことなく鹿児島に戻り、西南戦争で没しました。

従道(じゅうどう)はここに別邸を建て、その後本邸として使用し、明治35年(1902年)60歳で没するまで居住しました。

お問い合わせ

生涯学習課 文化財係