更新日:2021年3月15日
東日本大震災から、10年。
めぐろ区報令和3年3月15日号では、友好都市である宮城県気仙沼市に住む一人の女性、小山里子さんに当時の話を伺いました。震災当時小学3年生だった彼女は今、何を思うのでしょうか。
小山さんのプロフィール
小山里子さん(19歳)
宮城県気仙沼市出身。2011年3月11日東日本大震災発生当時は小学3年生。避難所生活を送る中で、子どもたちで作成し大人たちを元気づけた壁新聞「ファイト新聞」の2代目編集長。現在は水産加工販売会社で事務員として働く。
あの時、「大人たちの笑顔を取り戻せるのは自分たちしかいない」という強い使命感があった
突然、日常を奪った東日本大震災
それまで、当たり前にあった私たちの日常を突然奪ったあの東日本大震災から10年がたちました。
小学生当時の小山さん
当時、小学3年生だった私は、もうすぐ社会人2年目を迎えます。あの日、小学校の教室で帰りの会をしている時、ひどい地鳴りが響き渡り、直後に立っていられないほど教室が大きく揺れ、机の下に隠れたのを覚えています。
私が通っていた小学校は高台にあったので、母と3つ上の姉とそのまま体育館で一晩過ごすことになりました。雪が降っていて、とても寒い日でしたが、電気も通っていないので、暖をとる手段はありませんでした。
2011年の気仙沼市鹿折地区(2011年6月撮影)
震災の翌日、高台から自分の家の状況を見に行きました。その時私は変わり果てた町を見て、初めて事の重大さに気付かされました。父と祖父の安否も分からず、自分の家も無くなっていて、絶望的な気持ちでした。きっとあの時被災した方々は、みんな同じ気持ちだったと思います。
その日の夕方、父と祖父の無事が分かり、家族全員そろうことができましたが、同じところに避難していたかたの中には、まだ家族が見つからないかたや、家族を失ってしまったかたもいて、避難所全体がとても暗い雰囲気だったのを覚えています。
そんな時、同じ場所に避難していた当時小学1年生の吉田理紗ちゃんから「新聞を書こう」と誘われました。
その新聞の名前は「ファイト新聞」
最初は小学生4人で始まった、ただの暇つぶしのようなものでしたが、暗い顔をした大人たちを少しでも元気づけられたらという思いで始めました。第1号を書き終え、同じ部屋に避難していた人たちに回し読みをしてもらいました。すると、だんだんと大人たちの顔に笑みが戻っていくのが分かりました。
記事にしたのは「電気が復活したこと」や「炊き出しがおいしかったこと」などで、避難所生活でのちょっとした出来事などを書き出していました。
明るい話題が並ぶ「ファイト新聞」
ルールは「暗い話は絶対に書かない」
小学生ながら「大人たちの笑顔を取り戻せるのは自分たちしかいない」という強い使命感があったのだと思います。
新聞を毎日書き続け、そのたびに回し読みをしてもらいました。すると大人のかたから「毎日楽しみにしてるよ」「いつもありがとう」などと声を掛けられるようになりました。私は、自分たちの書いた新聞で周りを元気づけられていることがとてもうれしかったです。
全国のかたから文房具やカメラなどの支援物資もいただき、本当にたくさんの人の支えがあって乗り越えられてきたと実感しています。
私は、家を流され、体育館での避難所生活、仮設住宅での生活、そして今は災害公営住宅に住んでいますが、その中でたくさんの人と出会い、普通の人生では経験できないこともたくさん経験してきました。
それは、あの震災がなければ絶対に経験できないもので、そもそもあの震災を経験したこと自体も、言い方は悪いかもしれませんが、奇跡のようなものです。
手書きで一生懸命に描いた「ファイト新聞」
生きたくても生きられなかった人の分まで、強く
人間は無力です。どんなにあがいても自然の大災害は止められないし、勝てません。ただ憎むことしかできないのです。だから、経験した貴重な震災の記憶をずっと風化させないように、私たちが後世へつないでいかなければなりません。少なくとも、今私ができることはこれくらいしかありません。
絶対に起こってほしくはないけれど、いつかまた起こりうる震災に立ち向かえる強さ、たくましさ、みんなで支え合う力、そして生きていることへの感謝を持って、あの震災によって犠牲になられた方々の分まで、力強く生きていこうと思います。
最近は、新型コロナウイルスの話題で持ち切りですが、1日も早い感染の終息を願うには、今こそ東日本大震災の経験を生かすときです。みんなで支え合い、協力し合って平穏な日常に戻れることを祈ります。
中島みゆきさんの「糸」という曲は、私がとても好きな曲です。人と人が支え合い、幸せに向かって手を取り合っていく大切さを教えてくれる曲で、震災の時に励ましの声を掛けてもらったり、支援物資を送ってもらったり、炊き出しをしてもらったりして感じた、支え合いの力と、人の温かみを思い出させてくれます。同時に、人は一人では生きてはいけないという人間の弱さも教えてくれる曲です。
だから、どんなことでもみんなで手を取り合い、強く生きていきましょう。
生きたくても生きられなかった人の分まで、強く。
この記事に関してもっと知りたい
小山さんの話に登場した「ファイト新聞のこと」、「震災のこと」、「気仙沼のこと」、もっと知りたいかたに紹介します。
ファイト新聞
小山さんが2代目編集長をとして作成に携わった「ファイト新聞」。子どもたちが手書きで一生懸命に書いたファイト新聞には、明るい話題が並びます。子どもたちの活動が避難所を元気づけました。
「宮城県気仙沼発!ファイト新聞」(河出書房新社ホームページ)
「宮城県気仙沼発!ファイト新聞」(河出書房新社ホームページ)では、ファイト新聞の写真がご覧になれます。内容をまとめた書籍は現在品切れです
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館で知る震災
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館は、将来にわたり震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける「目に見える証」として、震災当日まで気仙沼向洋高校の校舎だった建物を活用し、2019年3月10日に開館しました。被災直後の姿をとどめた内部や映像などで震災の様子を伝えるほか、語り部ガイドや防災・減災体験プログラムなどを実施し、訪れた人の防災意識向上に寄与しています。
写真で見る気仙沼市の今 鹿折地区
2011年の気仙沼市鹿折地区(2011年6月撮影)
気仙沼市鹿折地区は地震で大津波と大火災に襲われ、壊滅的な打撃を受けました。町に漁船が打ち上げられている様子は、大津波の脅威を物語るものとして多くの人々の記憶に残っています。
2021年2月気仙沼市復興祈念公園から撮影
現在では、震災のがれきは取り除かれ、かさ上げされた土地には、道路・住宅・商店などが整備されています。
目黒区と気仙沼市のつながり
目黒区民まつり(さんま祭)
平成8年の住民同士のイベント交流をきっかけに、目黒のさんま祭へのサンマの提供、災害時相互援助協定の締結、中学生の自然体験ツアーなど、継続的に交流を重ね、平成22年9月18日に友好都市となりました。目黒区民まつりでのさんま祭は、毎年たくさんの人が気仙沼市からのサンマを心待ちにして賑わう目黒区最大のイベントです。
東日本大震災の際は、目黒区から気仙沼市へ職員派遣を行い、現在も3人の職員を派遣しています。
気仙沼市はこんなところ
宮城県の北東端に位置する気仙沼市。三陸復興国立公園の南部に当たり、リアス海岸特有の美しい景観をもつ港町です。サンマをはじめ、サメ(フカヒレ)やカツオ、マグロなど国内有数の水揚げ量を誇ります。
震災の教訓を忘れないために、あなたはどんな行動をしますか
東日本大震災から10年の節目を迎えます。この震災は、多くの犠牲を生み、様々な教訓を私たちに残しました。震災の教訓を忘れないために、あなたはどんな行動をしますか。
防災行動を知る
「いざ」というときのために災害時の行動や備えについて、防災行動マニュアルで事前に確認しておきましょう。
災害に備える
災害を予想して備えることで被害を少なくすることが出来ます。できることから始めてみましょう。
被災地を応援する
被災された方々への支援のため、様々な義援金を受け付けています。
催し物に参加する
震災の記憶を風化させることなく、復興への歩みを続ける友好都市への支援を今後も継続するため、目黒区総合庁舎で気仙沼漁師カレンダー展と記録映像などの放映を行いました。令和3年3月14日(日曜日)までで終了。
目黒区では、今後も防災に関するイベントや友好都市との交流イベントを開催し、震災を後世に伝えていきます。
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