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目黒の地名 千代が崎(ちよがさき)
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 千代が崎
権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(目黒区三田二丁目10番)辺りまでの目黒川沿いの台地を「千代が崎」といい、かつて目黒元富士、目黒新富士、爺ヶ茶屋、夕日が丘と並び富士をながめる絶好の場所で、江戸名所の一つであった。当時の人びとは花に、月に、雪に、ここを訪れては一日を楽しんで帰ったことであろう。
「新編武蔵風土記稿」によると「千代が崎は、三田・上大崎・中目黒・下目黒にわたって広大な敷地を有する肥前島原藩主、松平主殿頭(まつだいらとものかみ)の抱屋敷辺りをいう…」とあり、また江戸名所図会には「景色の優れたところで、松平主殿頭(まつだいらとものかみ)の別荘「絶景観」があったところ」と記されている。庭には、関東第一といわれた三段の滝が落ち込む大きな池があった。
さて、千代が崎の由来だが、武将新田義興の侍女千代にまつわる伝説から出たものであり、話は南北朝時代にまでさかのぼる。正平13年(1358)、義興は足利基氏・畠山国清に謀られ、多摩川矢口の渡しで殺されてしまった。義興の死を知った千代は「死ねば義興のそばに行ける」と考え、この池に身を投げてしまったのである。千代を哀れんだ人びとは、この池を千代が池と呼ぶようになり、それが地名ともなったのである。
千代が池は、警視庁目黒合同庁舎(目黒区目黒一丁目1番)の構内に昭和10年ごろまで、わずかに残っていたといわれるが、今日では広重画の「名所江戸百景」に見られるだけである。
また、千代が崎には、こんなエピソードも残されている。「松平主殿頭(まつだいらとものかみ)の屋敷内に三基の異様な灯ろうがあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(目黒区下目黒三丁目1番)に移されたのだが、それが十字の型をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになった」のである。
地名「千代が崎」は、昭和7年以前まで目黒町の字名として使われていた。
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