更新日:2024年3月29日

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歴史を訪ねて 駒沢練兵場

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

兵営が続々と出現

幕末期に持ち上がった駒場野演習場拡張計画は、周辺農民たちの激しい抵抗に遭い、とうとう実現しなかった。いわゆる駒場野一揆の一件である。

しかし、明治政府が富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適した土地として、再び注目を浴びた。幕末の動乱で、軍事力強化の必要性を痛感していた明治政府は、差し当たって諸外国から自国を守るために軍備を固めた。やがてそれは、アジア大陸への領土拡大をもくろむものへと変わっていった。「富国強兵」の旗の下に、わが国は、軍国主義の道を歩き始めたのである。

明治の初めには、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令が敷かれて以後、兵隊が増えたこともあって、兵営は郊外へ移転を始めた。また新しい兵営も続々と建てられた。その適地として目をつけられた土地のひとつが駒場野であった。帝国陸軍用地として買収の話が持ち上がったときには、幕末の駒場野一揆のような動きは起きなかった。むしろ、招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末のときとは違い、今度は幾ばくかの土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍の用地である。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待も、人びとの中にあったのかもしれない。

最初に現れた軍事施設は、明治24年に移転してきた騎兵第1大隊(のち連隊)の兵営であった。翌年にはその東に、新しく創設された近衛輜重(しちょう)兵大隊第1中隊(のち大隊)が兵営を築いた。輜重(しちょう)兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵隊である。これらの兵営の北、駒場野の一角に駒場練兵場が置かれた。

明治30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後、駒沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊であった。

三宿辺りのにぎわい

軍事施設が出現して、三宿辺りには兵隊やその家族相手の店や旅館が軒を並べるようになった。兵隊たちが「員数屋」と呼ぶ店には、軍服の肩章やベルトなどこまごました物が並べられ、紛失した兵隊はそこで買い揃えた。

兵営の周辺が、ことににぎわったのは、兵役の交替期であった。兵役を終えた兵隊と家族が再会を喜び、新しく入営する者の親類縁者は「祝入営」と書いたのぼりを立てて見送った。遠くから入営する者は、入営前夜は兵営近くの旅館に家族とともに泊まり、別れを惜しんだ。

つらかった急坂路訓練

駒沢練兵場では、さまざまな訓練が行われたが、東山の傾斜地での急坂路訓練は、大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて、坂を駆け上がり、下りてはまた上がるというものだった。後には牽引車(けんいんしゃ)が登場した。馬や牽引車(けんいんしゃ)が故障したという想定で、兵隊たちが引き上げるという訓練もした。

駒沢練兵場の難路 昭和15年10月(めぐろ歴史資料館所蔵)

東山の馬頭観音画像

東山の馬頭観音

急坂路訓練は人にとっても馬にとってもつらい訓練で、鍛えられていたはずの兵隊も恐れたほどという。ときには事故もあったのだろう、東山中学校脇にある馬頭観音には、苫良号と福宮号という2頭の軍馬が祭られている。軍馬は非常に大切にされたのである。

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