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歴史を訪ねて 目黒の鷹狩り 2

更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

駒場野

享保元年(1716年)の鷹狩り復活後、目黒筋の中で最も利用されたのは駒場野であった。現在、その大部分は東京大学教養学部が占めているが、当時の駒場野は人の背丈ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林が茂る広大な原野(約16万坪といわれる)で、キジやウズラなどの野鳥をはじめイノシシ、ウサギなどがたくさん生息していたといわれる。

八代将軍吉宗が駒場野で、初めて鷹狩りを催したのは享保3年(1718年)秋のことである。以後、吉宗の遊猟は15回を数えたという。また、駒場野では鷹狩りが中心であったが、次第にウズラ狩りやイノシシ狩りも行われるようになり、鉄砲を使う大がかりな狩りへと発展していった。

つらかった「ケラの御用」

このあおりを受け、付近の農民は、農事に使う牛馬の飼料である駒場野でのまぐさ採りを禁止された。そのうえ、鷹狩りの雑役や野鳥飼育用の大豆畑の仕事までも請け負わされ、鷹狩りが度重なるにつれて大きな負担となった。特に、鳥見が常駐していた上目黒村では、お触れが出ると、鷹の生餌いきえであるケラを納めなければならなかった。

ケラ捕りは夜中に、ちょうちんの灯りで田畑のあぜを捜し回るのだが、なかなか捕まらない。そこで、炒り糠(いりぬか)をまき散らし、そのにおいに誘われ土中から出てくるケラを捕まえた。しかし、命ぜられた数量を確保するのは容易なことではなく、村方は再三、ケラ捕りの延期を願い出たほど、厳しく、そしてつらい御用であった。

各筋に綱差を設置

野鳥がどんなにたくさんいても、将軍は、一面の笹原や林の中を馬上で追うのであるから、そう簡単には捕まらない。狩りの度に一羽の鳥も捕れないようでは、将軍家のご威光にかかわる。しかも野鳥が減少するにつれ、御用役人の心配は一層強くなる。そこで一計を案じ、あらかじめ野鳥を捕まえて飼育しておき、いざというときの御用にと、飼付御用を務める綱差つなさしという役が各筋に設けられた。

目黒筋の初代綱差つなさしは、武州多摩郡野津田村(現在の町田市)の農民で、キジ捕りの名人といわれた川井権兵衛ごんべえさん。権兵衛ごんべえさんは、享保3年(1718年)に下命を受けて駒場野の近くに移り住み、将軍家遊猟の際の陰の演出者として活躍した。以後、目黒筋の綱差つなさしは、代々川井家が受け継ぎ、権兵衛ごんべえを襲名した。

俗謡となった権兵衛さん

初代権兵衛ごんべえさんのキジ捕りの方法は、まず、笹原を10坪ほど切り開き、キジの大好物の大豆をまいておく。そして、近くの番小屋で様子をうかがい、キジが大豆を食べる瞬間に引き綱を引いて網をかぶせる。しかし、肝心のキジよりも先にカラスがえさを失敬してしまう。こうした毎日を繰り返すので、ほとほと手を焼いた権兵衛さんは、6尺もある木刀(だんびら)を振り回してカラスを追う。

そんな情景をおもしろおかしくうたった、権兵衛ごんべえが種まきゃ、カラスがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい、ズンベラ、ズンベラ…」という俗謡ぞくようが生まれたという。 しかし、同じ俗謡ぞくようが和歌山、福岡両県をはじめ各地方でもうたわれており、目黒で生まれたという説の真偽のほどは明らかではない。

かくて、徳川歴代将軍による目黒筋での鷹狩りは、綱差つなさしや農民の苦労をよそに、幕末まで続けられたのである。

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