更新日:2024年3月29日

ページID:1854

ここから本文です。

歴史を訪ねて 円融寺(えんゆうじ)

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

円融寺(えんゆうじ)

碑文谷一丁目に、都内では2番目に古い木造建築がある。唐様に和様の美を取り入れた単層、入母屋造りの美しい屋根の線を見せている円融寺(えんゆうじ)本堂釈迦堂がそれだ。中世建築の資料として貴重なこの建物は、国指定重要文化財である。釈迦堂の建立は室町時代初期といわれている。

円融寺釈迦堂画像

円融寺釈迦堂

天台宗法服寺から日蓮宗法華寺へ

仁王像(左が阿像、右が吽像)

現在の円融寺(えんゆうじ)の地に、比叡山延暦寺の末寺、妙光山法服寺が開山されたのは、平安前期の仁寿3年(853年)のことである。天台宗慈覚大師開山の法服寺は、430年続き、その間平穏に過ぎたらしい。

日蓮上人入寂の翌弘安6年(1283年)、法服寺は日源上人によって天台宗から日蓮宗に改宗され、寺号も妙光山吉祥院法華寺と改められた。このことは、本堂の西側に現存している日源上人五重石塔に記されている。

法華寺の繁栄と衰退

室町時代、日蓮宗はいくつかの門派に分かれ、本寺を中心にそれに従属する末寺を支配していた。碑文谷法華寺は、地域的には池上本門寺に近かったが、この教団には属さず、むしろ自ら本寺として多くの末寺を従属させていた。10世日瑞上人のとき、寺運は頂点に達し、坊舎18、末寺75に及んだ。門前には露店が軒を連ね、参詣する老若男女がひきもきらず、大変なにぎわいであったという。元禄以前においては、碑文谷村民のほとんどが檀徒であった。

室町時代に威勢を示していた日蓮宗は、江戸時代に入ると各派が分立して、紛争が激しくなっていた。早くから関東における不受不施派の統率者であった法華寺は、寛永7年(1630年)、受不施を唱える身延山と対決したが、徳川氏一門の身延山に対する擁護もあって、不受不施は邪義とみなされ、多くの上人が処罰された。

不受不施とは、法華経の信者以外からは供養を受けず、またほどこしも行わないというもので、日蓮宗本来の純粋な法華信仰をたもつための宗門の規則である。一時、不受不施派は赦免された時期もあったが、寛文5年(1665年)、幕府の朱印状書替を機会に弾圧が厳しくなり、大禁圧が加えられた元禄11年(1698年)、19世日附上人のときに法華寺は取りつぶされ、再び天台宗に改宗することになったのである。

改宗後、法華寺と村民との間には、檀家の離散とともに種々の紛争が起き、法華寺の権威も衰えていった。天保5年(1834年)3月には今の経王山円融寺と改称された。

蓮華往生

法華寺の取りつぶしについては、「蓮華往生(れんげおうじょう)」という悪事が行われていたためという説が伝えられている。

蓮華往生(れんげおうじょう)とは、信仰に凝り固まり、1日も早く成仏したいと願う信者を、銅製の大きな蓮華の台にのせ、大勢の信者が周りで熱心にお題目を唱えれば、日蓮様のご法力でなんの苦痛もなく極楽往生できるというものであった。ところが、実際は、鉢巻をした僧侶が、蓮華の台にのせた信者を蓮台の下から槍で突き刺して殺していたのである。殺される者の悲鳴は蓮台を取り巻く僧侶の読経や鐘、太鼓の音にかき消され、周りにいる人には聞こえない。死体は火葬にしてから家族に引き渡したので、極楽往生を疑う者はなく、家族や縁者は成仏を喜んで多額の金品を寄進した。

この悪事を見破ったのが、一心太助(いっしんたすけ)だと伝えられている。大久保彦左衛門の力を得て、町役人数人が信者を装って潜伏する中、一心太助(いっしんたすけ)は自ら蓮華往生(れんげおうじょう)を願い出て蓮台の中に座ったが、そのとき、あらかじめ用意してきた銅製の鏡を下に敷いた。下から僧侶が槍で突き殺そうとしても鏡が邪魔になって殺せない。蓮台から飛び出した太助が「悪僧ども、ことの次第は判明したぞ。神妙にせい」と叫ぶと、町役人がいっせいに立ち上がり、悪僧たちを取り押えて、蓮華往生(れんげおうじょう)の幕切れとなった。

こうした蓮華往生(れんげおうじょう)ということが、下総(しもうさ)・上総(かずさ)の寺で実際に行われたことがあったらしい。これが碑文谷法華寺の事件として転嫁されたのは、江戸幕府の不受布施派弾圧のためであろう。同派が禁教の対象としてふさわしい証拠として流布されたものと思われる。

円融寺へのアクセス

  • 所在地 目黒区碑文谷一丁目22番22号
  • 交通 バス(渋谷駅から洗足駅)で円融寺(えんゆうじ)下車、徒歩1分。(目黒駅から大岡山小学校)で碑文谷二丁目、またはサレジオ教会下車、徒歩5分。

お問い合わせ

区民の声課 区政情報コーナー