更新日:2013年9月5日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
円融寺
円融寺釈迦堂
碑文谷一丁目に、都内では2番目に古い木造建築がある。唐様に和様の美を取り入れた単層、入母屋造りの美しい屋根の線を見せている
天台宗法服寺から日蓮宗法華寺へ
仁王像。左が阿像、右が吽像
現在の
法華寺の繁栄と衰退
室町時代、日蓮宗はいくつかの門派に分かれ、本寺を中心にそれに従属する末寺を支配していた。碑文谷法華寺は、地域的には池上本門寺に近かったが、この教団には属さず、むしろ自ら本寺として多くの末寺を従属させていた。十世日瑞上人のとき、寺運は頂点に達し、坊舎18、末寺75に及んだ。門前には露店が軒を連ね、参詣する老若男女がひきもきらず、大変なにぎわいであったという。元禄以前においては、碑文谷村民のほとんどが檀徒であった。
室町時代に威勢を示していた日蓮宗は、江戸時代に入ると各派が分立して、紛争が激しくなっていた。早くから関東における不受不施派の統率者であった法華寺は、寛永7年(1630年)、受不施を唱える身延山と対決したが、徳川氏一門の身延山に対する擁護もあって、不受不施は邪義とみなされ、多くの上人が処罰された。
不受不施とは、法華経の信者以外からは供養を受けず、またほどこしも行わないというもので、日蓮宗本来の純粋な法華信仰をたもつための宗門の規則である。一時、不受不施派は赦免された時期もあったが、寛文5年(1665年)、幕府の朱印状書替を機会に弾圧が厳しくなり、大禁圧が加えられた元禄11年(1698年)、19世日附上人のときに法華寺は取りつぶされ、再び天台宗に改宗することになったのである。
改宗後、法華寺と村民との間には、檀家の離散とともに種々の紛争が起き、法華寺の権威も衰えていった。天保5年(1834年)3月には今の経王山円融寺と改称された。
蓮華往生
法華寺の取りつぶしについては、「
この悪事を見破ったのが、
円融寺へのアクセス
- 所在地 目黒区碑文谷一丁目22番22号
- 交通 バス(渋谷駅から洗足駅)で
円融寺 下車、徒歩1分。(目黒駅から大岡山小学校)で碑文谷二丁目、またはサレジオ教会下車、徒歩5分。
