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歴史を訪ねて 「碑文谷(ひもんや)」の起源を探る
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
碑文谷(ひもんや)
碑文谷(ひもんや)。この珍しい地名の起源についてはいろいろな推測がなされているが現在までひとつの説を確定するには至っていない。ただ、応永32年(1425年)の「日運記」の中に碑文谷(ひもんや)という地名が著されている。
碑文を書いた石のある里
現在、通説となっている「碑文石(ひもんせき)」説は、碑文谷八幡宮に保存されている「碑文石(ひもんせき)」にまつわるものである。この石は高さ75センチメートル、幅45センチメートルくらいで、中央に「大日」、左右に「勢至」「観音」の梵字(ぼんじ)が刻まれている。
碑文谷八幡宮の碑文石
「碑文石」説は、村内の鎌倉街道の傍らに梵字(ぼんじ)を刻んだ碑があったが、たたりのため土中に埋めたと「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」「帝国地名辞典」に記されていることなどからいわれるようになった。
また、これら三文献と貞享4年(1687年)の「江戸惣鹿子」には、忠玄法師(江戸名所図会では日源上人とある)が卒塔婆に碑文を書いて、この地に埋めたために起こった名だとも記されている。
碑文谷とは
これとは別に、円融寺(えんゆうじ)にまつわるものとする説もある。
円融寺
円融寺(えんゆうじ)は天台宗の寺として仁寿3年(853年)に開基されたといわれ、弘安6年(1283年)には日源上人によって、日蓮宗妙光山吉祥院法華寺と改められた。その後、天台宗に復し、現在の円融寺(えんゆうじ)となった。
円融寺(えんゆうじ)には、天正13年(1585年)、法界塚付近の土地が同寺へ寄進されたときの書状があるが、その1行目では碑文谷法華(花)寺と記しながら、終わりの方では、武蔵国ひものや郷中と書いてある。また「江戸図屏風」には、桧物屋法華寺と桧物屋御鞭打(袋竹刀を振って打ち合う騎馬戦)が描かれている。天正19年(1591年)の「寺領寄進状」のように、武蔵国荏原郡桧物屋之内と記されている例もある。
しかしながら、「ひものや」「桧物屋(ひものや)」と書かれた文書は数が非常に少く、今までに残っている古文書の中では「碑文谷」という文字が一番多く使われている。これは、人々が「ひものや」あるいは「ひもんや」と発していた言葉を表記する際、「碑文谷」「ひものや」「桧物屋(ひものや)」という文字があてられたと考えることができる。従ってこの3つの文字が意味するところは全く同じものを指し、その中から一番使用される数が多かった「碑文谷」が地名として残ったのではないだろうか。
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