更新日:2019年5月22日
目黒区の遺跡について
目黒区内では旧石器時代から近世に属する58か所の遺跡が登録されています(平成27年3月現在)。
旧石器時代
旧石器時代は、今から約1万3千年以上前の時代で、打製石器を使い生活を行っていたと考えられています。
区内では13か所の遺跡から旧石器時代の遺物が見つかっています。
大橋遺跡や東京大学駒場構内遺跡では約3万年前の地層から石器が発見されています。
また、中目黒遺跡では、1万年以上前にさかのぼる石器が約600点発見されています。
縄文時代
縄文時代は約1万3千年前から約2千5百年前まで続いた時代で、土器を使用し始めた時代です。縄文土器の形や文様から草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分されます。
区内では47か所の遺跡から縄文時代の遺構や遺物が見つかっています。
縄文時代の遺跡は主に目黒川流域に遺跡が分布しており、目黒川の水や魚介類が利用されていたと推測されます。
この中でも東山貝塚遺跡は、明治時代より知られている遺跡で、これまでの調査などにより縄文時代中期から晩期の竪穴住居跡や後期から晩期にかけての墓などが発見されています。
また、大橋遺跡では縄文時代中期の竪穴住居跡が90軒以上発見されています。
弥生時代
弥生時代は約2千5百年前から約1千7百年前までの時代で、日本列島で稲作や鉄器の使用もこの時期に始まりました。
区内では10か所の遺跡から弥生時代中期や後期の遺構、遺物が見つかっています。
土器塚遺跡では、竪穴住居跡とともに集落を囲んでいたと考えられる環濠の一部が見つかっています。
また、ガラス製の小玉や土製の勾玉などの装身具のほか、米を食料としていた証拠となる炭化した米も発見されています。
古墳時代から平安時代
区内には古墳時代から平安時代までの遺跡が7か所登録されています。
このうち、古墳は大塚山古墳と狐塚古墳が登録されていますが、大塚山古墳は詳しい調査が行われないまま墳丘(土盛り)が削られてしまいました。
古墳時代の竪穴住居跡は、氷川遺跡で20軒以上、平安時代の竪穴住居跡は東光寺裏山遺跡で見つかっています。
また、大橋遺跡と東光寺裏山遺跡、東京大学駒場構内遺跡、氷川遺跡では、火葬墓が各1基発見されています。
この墓は、いずれも武蔵型土師器甕と呼ばれる素焼きの土器に骨を納めて埋葬しており、土器の特徴から、大橋遺跡のものが8世紀後半から9世紀前半、氷川遺跡のものが9世紀中葉から後半、東光寺裏山遺跡と東京大学駒場構内遺跡のものは9世紀後半に造られたものと考えられています。
中世・近世
区内には中世及び近世の遺跡が19か所登録されています。
中世の城館跡として、碑文谷殿山遺跡、伝目黒氏館跡遺跡がありますが、発掘調査が行われていないため詳しいことは分かっていません。
発掘調査を行った円融寺遺跡では、宴会や儀式に使用されたと考えられる土器皿や、瀬戸美濃系、常滑焼などの国産の陶器が出土しています。また、青磁や天目茶碗など、大陸で生産され運ばれてきた陶磁器も出土しています。時期は16世紀後半以降のものであると考えられます。
近世の目黒地域は江戸近郊の農村地帯であったため、多くの遺跡で見つかるものは、土地を区画するための地割溝です。
ただ、駒場御用屋敷跡遺跡は、享保3(1718)年に設置された御用屋敷のあった場所で、文献史料によれば、当初、約1万坪であったものが、森林を切り開いて拡大し、安政6(1859)年には西御薬園、東御薬園など約4万坪の広さとなったことが知られ、発掘調査で西御薬園の柵の跡や空堀が発見されています。
また、新富士遺跡からは、富士講に関連する地下式胎内遺構が発見されました。地下式胎内遺構の壁面には富士講のしるしや文字が刻まれ、正面の奥壁を掘り込んで祠が作られていました。この祠の下から、台座に文政3(1820)年の銘のある石製大日如来像も発見されました。
この他にも、菅刈遺跡では豊後岡藩中川家抱屋敷の庭園跡、茶屋坂遺跡では近世の三田用水跡が発見されています。
遺跡の紹介
目黒区の遺跡を紹介します。
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