目黒の地名 碑文谷(ひもんや)

更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 碑文谷

碑文谷の地名の起こりについては、諸説がある。


碑文谷石(碑文谷八幡宮)

まず、通説となっているのが、「碑文石」を起源とする説。八幡宮境内の稲荷社に保存されている碑文石は、昔、八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたもので、梵字が刻まれており、室町時代のものと鑑定されている。碑文谷とは、碑文を彫った石のある里(谷)を意味するという説である。このことは、「江戸名所図会」中巻と「新編武蔵風土記稿」巻之四十六、荏原郡之八に記されている。

しかし、昭和7年発行の「碑衾町誌」によると、碑文石起源説は、単に古伝説を根拠としただけで、碑文谷の地名ができたのは、もっと時代をさかのぼると書かれている。

次は、「檜物(ひもの)屋」を起源とする説。檜物(ひもの)という語は、古く用明天皇時代(585年ころ)の職人名にもあったと伝えられる。檜物(ひもの)とは、神社の柄杓(ひしゃく)、三宝や佃煮(つくだに)の容器などで、鎌倉時代になると各地に檜物(ひもの)屋が繁盛し、江戸時代には、今の八重洲や麻布にもあったという。碑文谷の地は、鎌倉街道沿いで古くから開けており、鎌倉・室町時代のころから檜物(ひもの)を業とする職人がいて、それが地名になったという説である。江戸図屏風に、「ひものや法花寺(今の円融寺)」とあり、法花寺文書にも、「武蔵国ひものや郷中」と記されているのが根拠とされる。

さらに、碑小学校(いしぶみしょうがっこう)八十五年史によると、鈴木堅次郎氏の「世田谷城名残常盤記」に、秘文の谷(ひもんのや)が語源で、その中の「ん」が消音されて、「ひものや」となり、それに碑文谷の漢字が当てられたとある。

もうひとつ、江戸初期、ポルトガル人ヒモンヤスに、鉱山採掘の方法を学んだことが、「慶長切支丹怪秘記」に書かれていることから、この人の名が碑文谷の起源であるという説もある。だが、碑文谷の地名は、室町時代の書物にも記されているので、人名説はこじつけと思われる。