更新日:2013年9月24日

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文化財めぐり(上目黒コース)

文化財めぐりは、2時間から3時間かけて目黒区内の文化財を見学して歩きます。平成22年6月13日(日曜日)に実施した文化財めぐりのコースを紹介します。

文化財めぐり(上目黒コース)の行程

出発

9時30分 大橋氷川神社(おおはしひかわじんじゃ)出発

見学場所

  • 大橋氷川神社(おおはしひかわじんじゃ)
  • 区立東山貝塚公園
  • 区立東山街かど公園
  • 寿福寺(じゅふくじ)
  • 蛇崩川緑道(じゃくずれがわりょくどう)
  • 芦毛塚(あしげづか)
  • 駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)
  • 世田谷観音

解散

12時 世田谷観音解散

文化財めぐり(上目黒コース)の概要

このコースは旧上目黒村大橋(おおはし)から、東山を経由し宿山(しゅくやま)に至り、後半は蛇崩川(じゃくずれがわ)を遡り世田谷観音までを巡ります。

大橋(おおはし)は、大山道(おおやまみち)(現在の玉川通り)が目黒川を渡る所に架けられた橋に地名が由来するように、古くから交通の要衝でした。近代には玉電(たまでん)の名で親しまれた路面電車が通り、その車庫が置かれ、最近では首都高速道路の大橋(おおはし)ジャンクションが設置されるなど、現在でも交通のかなめとなっています。

また、現在の池尻大橋(いけじりおおはし)駅付近、玉川通りをはさんで北側と南側の一帯には、戦前には陸軍輜重兵(しちょうへい)大隊、騎兵連隊などの施設があり、兵隊屋敷と呼ばれていました。

東山地域からは、東山貝塚を始めとして、縄文時代の人々の生活を伝える遺跡があちこちから発見されています。近代には軍の広大な練兵場(れんぺいじょう)として使用され、戦後は公務員住宅、小学校、中学校などが建てられています。

宿山(しゅくやま)は、上目黒地区の中でも古くから集落があった場所で、鎌倉道と呼ばれた中世以来の古道(こどう)が通り、宿山(しゅくやま)の名も宿場があったことに由来するといわれています。この地域には寿福寺(じゅふくじ)、烏森稲荷神社があります。

蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑(ばじこうえん)(世田谷区上用賀二丁目1番1号)付近を源とし、中目黒駅下流で目黒川に合流する目黒川の支流のひとつです。緑道(りょくどう)として整備されている所が多く、川すじをたどることができます。

目黒から世田谷にかけて、川に沿って芦毛塚(あしげづか)、下馬(しもうま)、上馬、駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)など、馬にまつわる地名があり、源義家、頼朝の奥州遠征に関わる言い伝えがあります。

文化財めぐり(上目黒コース)の見学場所の解説

1 大橋氷川神社(おおはしひかわじんじゃ)

大橋氷川神社(おおはしひかわじんじゃ)(目黒区大橋二丁目16番21号)は旧上目黒村の鎮守で上目黒氷川神社とも呼ばれています。天正(てんしょう)年間(1573年から1592年)に上目黒村の旧家である加藤氏がこの地に迎えたと言われています。

祭神(さいじん)はスサノオノミコトです。あわせて天照大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭っています。

正面の階段は、文化13年(1816年)に小松石(こまついし)で造られましたが、明治38年(1905年)の大山道(おおやまみち)改修の際に敷地を削られ、現在の急勾配の階段に改修されました。石段の下には、石段の改修記念碑、「武州荏原郡古菅刈庄目黒郷(ぶしゅうえばらぐんこすげかりのしょうめぐろごう)」と刻まれた供養塔、天保13年(1842年)に建てられた大山道(おおやまみち)道標があります。

また境内には、目切坂上(めきりざかうえ)にあった目黒元富士(めぐろもとふじ)から移された浅間神社(せんげんじんじゃ)の石祠、碑があります。

神社に向かって左手の斜面には、「目黒富士(めぐろふじ)」と名付けられた登山道が設けられ、毎年7月1日には山開きが行われています。

2 東山貝塚・東山貝塚公園

東山貝塚は、北区の西ヶ原貝塚、港区の丸山貝塚とともに都内三大貝塚とよばれた著名な貝塚でしたが、駒沢練兵場や区画整理などで比較的早い時期に消滅したものと考えられていました。

しかし、昭和58年から60年の発掘調査で縄文時代の住居跡が次々と発見され、集落の一部が残っていることがわかりました。現在まで住宅建設などの際に断続的に調査が行われ、旧石器時代の礫(れき)、縄文時代中期から晩期の住居跡、土坑墓(どこうぼ)、落し穴、弥生時代後期・古墳時代の住居跡、駒沢練兵場(れんぺいじょう)跡などが見つかっています。

区立東山貝塚公園(目黒区東山三丁目16番7号)には縄文人の生活を再現したコンクリート製の竪穴(たてあな)住居があります。また、貝塚が出土した公園西側の斜面のあたりから、今も水が湧き出しています。

3 東山街かど公園

区立東山街かど公園(目黒区東山三丁目20番1号)には、舗装の色をかえて、発掘された縄文住居跡の表示があります。中央に炉の跡、周囲4か所の柱の跡も表示されています。かつては東山の高台に何棟もの竪穴(たてあな)住居が建ち、小集落を形成していたと思われます。

4 寿福寺(じゅふくじ)

寿福寺(じゅふくじ)(目黒区上目黒五丁目16番6号)は、元和(げんな)元年(1615年)鳳算大阿闍梨(ほうさんだいあじゃり)の開山と伝えられています。本尊は阿弥陀如来像です。

境内には、区内に伝わるものとしては最古の弘安(こうあん)2年(1279年)の板碑(いたび)があります。

また、相生地蔵(あいおいじぞう)、庚申塔(こうしんとう)など多くの石造物があります。

寿福寺(じゅふくじ)墓地には、川井権兵衛(かわいごんべえ)の墓があります。川井家は、将軍の鷹狩りに備えて獲物を餌付けしておく綱差役(つなさしやく)を代々務めた家です。川井家に伝わる古文書は、鷹狩りや幕府の支配などを知る上で貴重な史料として、目黒区指定文化財に指定されています。

5 芦毛塚(あしげづか)

源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州征伐(おうしゅうせいばつ)でこの地を通ったとき、乗っていた馬が沢に脚を取られ転落して死んでしまいました。この馬の供養のために芦毛塚(あしげづか)(五本木1丁目18番先)を建てたという伝説があります。

この伝説から、あたりの地名を馬引沢(うまひきざわ)といい、上(かみ)馬引沢(うまひきざわ)、下(しも)馬引沢(うまひきざわ)に分かれ、さらに上(かみ)馬、下(しも)馬の地名になったという説があります。

6 駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)

駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)(世田谷区下馬四丁目27番26号)の祭神(さいじん)は大国主命(おおくにぬしのみこと)です。

平安時代後期の天喜(てんぎ)4年(1056年)、源頼義・義家(みなもとのよりよし・よしいえ)父子が朝廷の命令を受け、奥州安倍氏征伐に向かう際ここに立ち寄り、戦勝祈願(せんしょうきがん)をしたという説があります。

のちの文治(ぶんじ)5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原泰衡(おうしゅうふじわらのやすひら)征伐の際、源義家の古事にちなみ戦勝祈願(せんしょうきがん)を行い、社殿脇の松に馬を繋いだという言い伝えがあり、現在の神社名の由来になっています。

参詣後、頼朝は馬に乗って移動しようとしましたが、湿地のため馬を曳いて移動し駒留八幡神社(こまどめはちまんじんじゃ)(世田谷区上馬(かみうま)五丁目35番3号)から馬に乗ったので、下馬(しもうま)、上馬(かみうま)の地名になったという説があります。

7 世田谷観音

世田谷観音として親しまれている世田谷山観音寺(せたがやさんかんのんじ)(世田谷区下馬四丁目9番4号)は、昭和26年に開山した寺で本尊は聖観世音菩薩、他に重要文化財の「不動明王並びに八大童子像」、都指定文化財の「五百羅漢(ごひゃくらかん)坐像」などの文化財があります。

「不動明王並びに八大童子像」は、文永(ぶんえい)9年(1272年)、鎌倉時代の仏師(ぶっし)運慶の孫の康円(こうえん)の作で、六角堂に安置されています。

制作年は蒙古襲来の2年前にあたり、胎内願文(たいないがんもん)から世情安定を願って造られたことがわかります。
都指定文化財の「五百羅漢(ごひゃくらかん)坐像」は、本所の羅漢寺にあったもので、現在目黒の五百羅漢(ごひゃくらかん)寺に残る羅漢像と一体を成すものです。

お問い合わせ

生涯学習課 文化財係