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歴史を訪ねて 富士講

更新日:2016年3月4日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

富士講

山を神と仰ぐ山岳信仰は、かなり古い歴史を持つ。なかでも庶民に広く受け入れられたのは、秀峰富士を仰ぐ富士信仰であった。平安時代に記された「竹取物語」にはすでに「不死の霊薬」というくだりがある。今ではビルやスモッグにさえぎられて、富士山を拝むのも難しいが、空気の澄んだ昔のこと、江戸の町民は朝な夕なに富士に親しんだことだろう。

「江戸八百八講」

江戸時代には、霊験あらたかな社寺や霊場に参詣し、あるいはその維持のために奉加寄進を行うことを目的とする「講」という団体が、多く組織された。伊勢講や御嶽講、相模の大山を仰ぐ大山講、富士山を崇拝する富士講などがそれである。

富士登拝は中世以降から行われていたか、庶民に広まったのは、江戸時代の初期に、長谷川角行かくぎょうが教義を整え、講を組織してからであった。角行かくぎょうは無言不眠・水垢離みずごりなどの難行苦行を積み、106歳で富士の人穴で入定ひとあな  にゅうじょうしたといわれる。これが江戸っ子に支持されたのか、弟子に恵まれたこともあって、以来富士講は「江戸八百八講」といわれるほど隆盛を極めることになった。

旧暦6月1日の山開きには、講員が団体を組み、白装束にわらじ掛けといういで立ちで、鈴を振り金剛杖をつき「六根清浄」を唱えながら登拝した。ただし女性は不浄とされ、霊山に登ることは許されなかった。

目黒元富士・新富士

安永9年(1780年)、高田村(現在の新宿区戸塚)の藤四郎という者が、はるばる富士のふもとから溶岩塊を運び、近所の宝泉寺領に人造の富士を築いた。昔のこととて、富士登拝は決して容易な道のりではなかったし、経済的にも負担であった。そこへ築山の富士である。本物の富士山に難儀をして行かずとも、築山に登って富士を拝めば霊験あらたかとなれば、多くの人びとに歓迎されたことは想像できる。

その後、築山はあちこちに造られた。目黒では元富士と新富士が並び称され、広重の「名所江戸百景」に美しく描かれている。現在も都内には数十カ所の富士塚が確認できるが、移築されたり、再築されたりしていて、元の姿をとどめているものはほとんどない。なお、下谷坂本の富士塚、豊島長崎の富士塚、江古田の富士塚は国の民俗文化財(有形)に、千駄ヶ谷の富士塚、中里の富士塚は都の有形民俗文化財に指定されている。

目黒元富士は現在の上目黒一丁目、目切坂上にあり、別名西富士または丸旦山といわれた。文化9年(1812年)に目黒村の熱烈な富士講員たちが築いたもので、高さは12メートルほど、つづら折りの登り道があり山頂には浅間神社が奉られていた。旧6月1日の山開きに限らず、江戸の人びとの行楽の名所として春に秋ににぎわったという。丸旦山とは、目黒村の富士講のマークが丸に旦の字であったことからきている。明治11年にお宮や鳥居が撤去され、丸旦マークの碑石は氷川神社(大橋二丁目)に移された。今でも7月1日、浅間様の例祭が行われる。

目黒新富士は元富士に遅れること7年、文政2年(1819年)に、択捉島えとろふとう探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)の邸内に築いたもの。東富士、近藤富士とも呼ばれた。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、趣味人であったらしく、富士の築山も信仰心からというより観賞のためと思われる。昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけである。

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