更新日:2013年9月17日

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歴史を訪ねて 東山貝塚遺跡

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

東山貝塚遺跡

区内には、これまでに54か所の遺跡が確認されており、なかでも縄文時代中期の遺跡は43か所と区内の遺跡の中で最も多い。しかも、これらの遺跡のうち、東山貝塚遺跡や油面遺跡、大橋遺跡などは大規模な集落であったことが発掘調査によりわかってきている。

遺跡の存在は、地理的条件が当時の生活に適していたことを示すものである。目黒地域は、目黒川・呑川・立会川の三水系と豊富なわき水に恵まれ、さらに、自然林に覆われた平坦な台地の上は通風もよく、木の実や食用に適した動物が多く生息していたと考えられる。特に目黒川の台地及びその縁辺部には東山貝塚遺跡をはじめ、大橋遺跡や目黒不動遺跡など、多くの遺跡が集中している。

区内遺跡分布図

海から遠く離れた貝塚跡

区内の遺跡の中で最も有名なのは、目黒川をのぞむ台地縁辺から斜面にかけて集落のあった東山貝塚遺跡(東山二丁目・三丁目一帯)である。この遺跡は、縄文時代後・晩期を主体とする集落跡であるが、近年の発掘調査により縄文時代中期や弥生時代後期の集落跡も発見されている。この斜面地部分に貝殻や、魚、動物の骨などを捨てた貝塚が存在する。

北区の西が原貝塚や港区の丸山貝塚と並んで東京市三大貝塚といわれた東山貝塚は、わが国人類学の祖、坪井正五郎博士によって、明治の中ごろに発掘された。この貝塚からは、ハマグリ・アサリ・ツメタガイ・ヤマトシジミなどの貝殻や、クロダイ・アジ・フグ・コイなどの魚の骨、イノシシ・シカなど動物の骨も発見されている。

海から遠く離れた東山に、なぜ海水産の貝や魚が残されていたのだろうか。そのわけは、縄文時代には、今の目黒川の低地が入江となっていて、海水が東山のすぐそばまで入り込んでいたからである。このことから、狩猟と同時に漁猟も行われていたのである。

住居跡は区画整理中に発見

時代は移り、大正12年の関東大震災後、東山辺りにも、移り住む人びとが増えてきた。同15年、区画整理作業中に、13軒の竪穴式住居跡が発見され、鳥居龍蔵博士を中心とする考古学者の手によって発掘されたのである。このことは当時の新聞や考古学誌に発表され、東山の名は一層有名になった。

発掘された竪穴式住居は、7本から10本程度の柱穴をもつ直径6メートル、深さ30センチメートルから40センチメートルの円形状を呈するものであり、床の中央部分には石を囲って作られた炉も存在したとの記録がある。

昔をしのぶ東山貝塚公園

今日、これらの貴重な遺跡は、都市化の進む中で住宅や工場・道路に代わり、その面影を残すものはほとんどなくなってしまったが、東山貝塚遺跡の出土品は、めぐろ歴史資料館(旧守屋教育会館郷土資料室)や國學院大学考古学資料室などに保存展示されている。

たて穴式住居(複製)の内部

区では、貝塚の近くに、区立東山貝塚公園(東山三丁目16番7号)を造成する際、國學院大学名誉教授、樋口清之氏の指導を受けて、同公園入口横に、縄文時代の竪穴式住居を擬製復元した。内部には、古代生活の様子が伺えるよう、炉を囲んで夫婦と子どもの3人が座り、石おの・土器・ヤジリ・鹿皮などが展示されている。また、今なお、こんこんとわき出る水を利用して造ったせせらぎは、訪れる人びとに安らぎを与えている。

今から約5,000年以上もの昔、私たちの祖先は、わき水など地の利を得て、この地に生活を展開していたのである。

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生涯学習課 文化財係