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更新日:2024年2月15日

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歴史を訪ねて 近代農法発祥の地・駒場

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

近代農法発祥の地・駒場

区内に残るただひとつの水田―駒場二丁目にある水田は、かつての駒場農学校農場の一部である。わが国で初めて水田での肥料試験が行われた地として「ケルネル田圃(たんぼ)」とも呼ばれ、農学史を飾る由緒ある水田である。


ケルネル田圃(たんぼ)

総合的教育・研究の場、駒場農学校

明治の初め、政府が殖産興業政策の一環として採った勧農政策は、わが国農業に先進諸国の技術を導入、移植することであった。そこで、ときの内務省勧業寮農学課は、わが国の農業を改革すべく先進諸国の農機具や農作物、家畜などを輸入し、近代的農業技術者を養成するため、機械化農業を主としたイギリスから技術者を招き、明治7年、内藤新宿(現在の新宿御苑)に農事修学場を設けた。


開校当時の様子を描いた絵

しかし、農耕地の手狭などから、かつて江戸幕府の鷹場であった駒場野に移転することになり、約6万坪を開拓して明治11年、名称も新たに駒場農学校が創立された。同17年に同校の敷地は16万5,000坪余りに達し、輸入した農作物、種苗を栽培する「泰西(たいせい)農場」や「本邦農場」、その他校舎や家畜病院、気象台、園芸・植物園などを配し、まさに農業に関する総合的教育・研究の場となった。

プロイセン農法で発展

ところで、わが国農業の改革には多額な資本を要するイギリス式機械化農業よりも農芸化学を応用した栽培技術の改良に関心が払われ、開校時に招かれたイギリス人技術者は解職されることになった。代わってヨーロッパに広まっていたプロイセン(現在のドイツ、ポーランドあたり)の農芸化学を取り入れて学ぶことになった。

プロイセンの技術者たちは、土地改良をはじめ農耕、肥培管理など、どこまでもわが国農業の特質を配慮しつつ教育、研究を行ったので大きな成果を収めた。以後同校はプロイセン農法を受け継いで発展したのである。

優秀な農学者を輩出

同校は明治19年に東京農林学校に、その後、幾度か学制を変え東京帝国大学農学部となり昭和10年に本郷へ移転した。その跡地は第一高等学校(東京大学教養学部の前身)、東京農業教育専門学校(旧東京教育大学農学部の前身、現在の区立駒場野公園)前田侯爵邸(一部は現在の区立駒場公園)に分割されたという。

駒場農学校は、優秀な農学者を数多く世に送り出した。その意味で、同校はまさに「日本近代農業の揺(ゆ)りかご」と呼ぶにふさわしい存在であったということができよう。

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