更新日:2015年7月2日

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歴史を訪ねて 目黒の鷹狩り 1

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の鷹狩り

目黒といえば、さんま・タケノコ・不動尊で広く世間に知られている。これらは徳川歴代将軍の鷹狩りと深いかかわりがある。すなわち、目黒の近世史を語るうえで、将軍家の鷹狩りを見過ごすわけにはいかないのである。

駒場野の面影を残す駒場公園

近郊の鷹場を整備

鷹狩りは、飼いならした鷹をこぶしにのせ、山野に放して野鳥を落としたり、捕まえたりする、鍛練と娯楽を兼ねた行事であったが、中世になり武家が政権を執るようになると、政治的なねらいから、領内の民情や敵地の情勢を探る傾向が強くなり、制度として次第に整えられていった。

江戸時代に入ると、幕府は鷹狩りを年中行事に取り入れ、年頭には決まって将軍自らが鷹狩りを行ったといわれる。また、将軍家が鷹狩りを行う場所を御鷹場、拳場(こぶしば)、御留場(おとめば)などといい、特に幕府のおひざ元である江戸近郊の鷹場は、江戸を固めるために整備され、鷹の飼養と調練にあたる鷹匠や鳥見(とりみ)などが置かれた。

江戸名所図会「駒場野」

自給自足のさびれた農村であった目黒の中で、駒場野、碑文谷原、碑文谷池などが、将軍家の格好な鷹場となった。また、鷹場の各所に鷹番を置き、各村に高札を立てて村の連帯責任で見張らせたりしたといわれている。鷹番の地名もこんなところから出たものであろう。

「生類憐みの令」で一時中止

鷹狩りを好んだ三代将軍家光は近郊へ遊猟に出ることが多く、史料によると、寛永から正保年間にかけて、碑文谷原へ1回、目黒辺りへ6回という記録が残されている。特に寛永元年(1624年)、秋の鷹狩りの際に目黒不動に立ち寄ったのが縁で、元和元年(1615年)の火災で焼失した本堂を再建し、仏像なども寄進したといわれている。以来、目黒不動は幕府の厚い保護を受け、江戸近郊の最も有名な参詣行楽地として栄えていった。また、爺ヶ茶屋にまつわる目黒のさんまの話もこのころのものである(話の主は、八代将軍吉宗であるという説もある)。

盛んに行われてきた将軍家の鷹狩りは、貞享4年(1687年)に五代将軍綱吉が出した「生類憐令(しょうるいあわれみのれい)」により、中止せざるを得なくなり、以後七代将軍家継まで、目黒での鷹狩りの記録はない。

農民泣かせの鷹場復活

八代将軍吉宗の時代を迎えて、享保元年(1716年)に再び鷹狩りは復活し、江戸の鷹場は葛西、岩渕、戸田、中野、品川、目黒の6筋に分けられた。特に目黒筋の鷹場は、江戸からの距離や地形の関係から、従来にも増して活況を呈するようになった。これらの鷹場は単に復活しただけでなく、幕府創設期の緊張した政治への復活を目指すものであった。しかし、この復活によって、付近の村は田畑を踏み荒らされたり、鷹場の整備に駆り出されたりして、農民泣かせの復活でもあった。

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