更新日:2024年3月25日

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歴史を訪ねて 駒場農学校

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

駒場農学校

井の頭線駒場東大前駅西口から出て、線路沿いの道を西へ進む。まもなく左手に、駒場野公園が見えてくる。北門から入って、右側が駒場の池、左側が日本農学発祥記念の地「ケルネル田圃(たんぼ)」である。

「ケルネル田圃(たんぼ)」とは、
「明治14年ドイツ人ケルネルが、駒場農学校農芸化学の外人教師としてドイツより着任以来、後身である東京農林学校、東京帝国大学農科大学を通じて、明治25年に帰国するまで、近代日本における農学の基礎づくりに大きな影響を与えた。とくに水田土壤の研究とイネ作肥料の研究に多くの業績を残し、この水田が試験田として利用されたことから「ケルネル田圃(たんぼ)」と呼ばれている」
(駒場水田の碑文より)

名誉教師ケルネル君像

明治の初め、政府は、殖産興業政策のひとつとして、経験に基づいた日本の在来農法に、先進資本主義諸国の農業技術を積極的に導入しようと図った。そのため、農業技術を指導する外国人教師が、さかんに招かれた。クラーク博士を教頭に迎え、アメリカ系統の農業技術を取り入れたのが札幌農学校(現北海道大学)であり、ケルネルらを通じて、ドイツ農法を吸収したのが駒場農学校であった。

開校当時の駒場農学校の全図

開校当時の駒場農学校

駒場農学校は、現在の東京大学教養学部、駒場公園、東京大学駒場リサーチキャンパス、駒場野公園(旧東京教育大学移転跡地)にまたがる約6万坪の敷地で、明治11年に開校された。その後、次第に拡張され、最盛期といわれる明治17年には、敷地面積が16万5,000坪に達し、欧米の農作物を試植する泰西(たいせい)農場、在来農法の改良を期した本邦農場、家畜病院、気象台、園芸・植物園などを持つ、さながら農業の総合教育・研究所の観があった。

船津とケルネル

駒場農学校が、黎明(れいめい)期の日本近代農学の発展に果たした役割は、計り知れないものがある。なかでも、群馬の農民船津伝次平(ふなつでんじへい)と、水田にその名を残したケルネルら2人の活躍はめざましかった。

船津伝次平(ふなつでんじへい)は、農学校の教官に抜てきされると、自ら先頭に立って駒場の原野を開墾した。その後、本邦農場を使って、日本の農業に欧米農法の長所を取り入れることに努めたという。

一方、ドイツ人オスカー・ケルネルは、明治14年、政府の招きに応じ、農芸化学の教師として着任。土壤(どじょう)・肥料・酪農の講義を手始めに、米作・養蚕・漁業の方面へも研究範囲を広げ、大きな成果を収めた。このとき、ケルネル田圃(たんぼ)は、我国初の水田試験地として、土壤(どじょう)や肥料の研究に大いに役立ち、その名を後世に残すこととなったのである。

伝統の火は消えず

農学校開校以来、100年以上の歴史を見守り続けてきたケルネル田圃(たんぼ)の伝統は、世田谷区池尻にある筑波大学付属駒場中学・高校の生徒たちの手によって、今なお受け継がれている。同校の生徒たちは、毎年6月に田植え、10月に稲刈りをする。収穫した米は、卒業式・入学式の折に赤飯にして、生徒たちが賞味するという。

なお、旧東京教育大学農学部移転跡地のうち約2万8,000平方メートルは、ケルネル田圃(たんぼ)や池・雑木林を残しつつ、テニスコートや体育館などを備えた駒場野公園として、昭和61年3月に開園した。

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