更新日:2024年2月15日

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歴史を訪ねて 西郷山の従道邸

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

西郷山の従道邸

青葉台二丁目周辺は、別名西郷山とも呼ばれている。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道(じゅうどう)が付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからである。


明治村に保存されている西郷従道邸の西洋館

兄隆盛のために購入

このあたりは、江戸時代、「荒城の月」で知られる豊後(今の大分県)の岡(竹田)城主、中川修理大夫(しゅりだいぶ)の抱(かかえ)屋敷であった。樹木がうっそうと茂り、池に三田用水から水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一とうたわれた。その後、2万坪に及ぶこの屋敷は、明治維新のとき征韓論を主張して破れ、下野した兄隆盛のために、従道(じゅうどう)が手に入れたのである。

西郷従道(じゅうどう)(1843年から1902年)は、明治2年に山県有朋(やまがたありとも)らと欧州を視察後、わが国の兵制や警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力した。兄の下野にもかかわらず、英明な従道(じゅうどう)は新政府の要職につき、文部卿・陸軍卿・農商務卿・内務卿・海相などを歴任した。

明治天皇も来邸

行幸の碑

洋館・書院造りの和館などを配置した回遊式の庭園は、東京一の名庭園といわれ、名士が訪れることも多かった。特に、従道(じゅうどう)が海軍大臣であった明治22年には、明治天皇の行幸や、皇后・皇太后の行啓があった。天皇は、庭園での大相撲や薩摩踊りを、また皇后は、当時従道(じゅうどう)が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心に観覧したと伝えられる。

邸内には、養蚕所のほか農園・果樹園もあり、機織りやトマトソースの製造・缶詰加工も行われていたという。

耐震性を考えた西洋館

広々とした芝生や、大王松(だいおうまつ)・ヒマラヤ杉・落羽松(らくうしょう)などが茂る樹林に囲まれ、清浄な池に面した西洋館の建築には、フランスの建築家レスカースと棟梁(とうりょう)鈴木孝太郎が携わった。
建具類はほとんどフランス直輸入の品を使用した。また、屋根は垂木(たるき)を省いたり、金属板を葺くなどの軽量化が図られた。さらに、建物の四隅には通し柱を配置、壁の中にはれんがを積み建物の浮き上がりを防ぐなど、当時では、他に類例の見られない耐震設計がなされていた。

跡地は公共施設に

従道(じゅうどう)の死後は、二男従徳(じゅうとく)が昭和16年に渋谷に移転するまで、本邸として使用していた。その後、同邸の所有は箱根鉄道・国鉄と移ったが、空襲で和館が焼失したり名木が枯れるなど、往時の面影はほとんど失せてしまった。わずかに残された西洋館は、国鉄官舎や当時のプロ野球国鉄スワローズの合宿などに利用されていたが、昭和38年、愛知県犬山市の「明治村」に移され、後、国の重要文化財に指定された。

現在は西郷山公園・菅刈公園として整備され、新たな憩いの場となっている。

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生涯学習課 文化財係