更新日:2013年10月1日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地蔵尊信仰
釈迦の
わが国には8世紀ころ伝来、平安時代後期の貴族層に広まり、地獄の苦しみから救済してくれるのが地蔵だとされ、鎌倉時代に入ると阿弥陀浄土信仰と融合して、広く民衆に広まっていった。道祖信仰とも結び付き、村の辻々に像が建てられた。また、子どもを救済するという信仰がおこり、子安地蔵となってあらゆる階層に浸透していった。江戸時代に最も盛んとなり、延命地蔵や六地蔵、千体地蔵など各地で地蔵講が催された。
目黒の地蔵尊
お地蔵様にまつわる言い伝えは各地に多い。それだけ地蔵尊信仰は人々の心に深く刻みこまれている。本来、地蔵尊は、野道や山道で風雨に
目黒でも地蔵尊信仰は盛んである。それぞれに由来や伝説を秘め、お寺の境内や往来の辻々にひっそりとたたずんでいる。その幾つかを紹介してみよう。
〆切地蔵
駒場の〆切地蔵
玉川通りを大坂上で分かれて西へ進む補助52号線、通称淡島通りが世田谷区へ入る地点、駒場二丁目17番にある。駒場の東の入口を松見地蔵が、西の入口をこの地蔵が守っている。お堂の中には3体の地蔵が並んでおり、江戸時代の延宝から元禄年間に建立されたもののようである。板きれに由来らしきものを書いたものがあったという。
「コノ地蔵ハ、駒場、下代田、池尻ノ、境ニアル仏デアリマス。昔ノ人ノ伝エ聞ク話ニ依ルト、明治初年以前、西駒場地蔵(一名〆切地蔵)ト申サレ、隣村に悪病流行致ス時ハ、当駒場ノ村人一同、百万ベント云フ念仏ヲトナエ、地蔵尊ニ願ヲ掛ケ、当時ニハ一名ノ病人モ無ク、安心シテ生活シテコラレタノ由。悪病悪魔〆切ト云フノデ〆切地蔵ト申サレ、今デモ重病人ノ在ル方ハ、〆切地蔵ニ一週リ(現今ノ一週間)、モシ一週リニテ御利益ナキ時ハ、二週リ御願申セバ必ズ快方ニ向フトノ伝説デ御座リマス。又此ノ地蔵ニ『イタズラ』又賽銭ヲ取ルマタハ不心得ノ者ハ、一ヶ月以内ニ必ズ災難ニアフトノ事、又他何事ノ願デモ必ズ誠心誠意ノ方ニ成就スル事『ウタガイナシ』」
それには、このように書いてあり、昔から霊験あらたかで親しまれていたお地蔵様である。
成就院のお静地蔵
下目黒三丁目11番の「たこ薬師」の通称で知られる成就院の境内東側に安置される石仏群は、中心に阿弥陀如来、その右に観音3体、左に地蔵尊3体からなる。地蔵尊は左から、
まず江戸城中奉公を祈念し、あるいは将軍の寵愛を、あるいはお腹様となることを祈3体の観音を奉じ、素願なり慶長16年(1611年)幼名「幸松麿」を授かり、その後は、子の
おしろい地蔵
蟠龍寺 のおしろい地蔵
下目黒三丁目4番にあり、岩屋弁財天で知られる
元禄11年(1698年)の建立とされる。地蔵の顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になるという信仰があり、特におしろいに縁のある歌舞伎役者に信仰された。
