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更新日:2024年2月15日

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歴史を訪ねて 目黒の川 2 呑川・立会川(のみがわ・たちあいがわ)

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の川 2 呑川・立会川

目黒区は、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の東端に位置する。

北東部は淀橋(よどばし)台、南西部は荏原(えばら)台と呼ばれる海抜30から35メートルの台地の一部を形成し、区の中央部には、海抜25から32メートルほどのやや低い目黒台が広がっている。北東部の水系は目黒川本支流、南西部では呑川(のみがわ)本支流である。目黒川と呑川(のみがわ)は北西から南東に走り、20から30メートルの深さの谷をつくっている。これらの支谷によって刻まれた地形は起伏に富み、坂の多い目黒のまちをつくっている。

衾村の村絵図(宝暦12年)

呑川(のみがわ)

「水源は郡中世田ヶ谷領深澤村より出て、わつかなる流なれと、衾、石川、雪ヶ谷の三村を歴、道々橋村に至て千束溜井の餘水合して一流となり、池上堤方に至る、この村内にて市倉村の方へ分流あり、すへて水源の近き處より此邊に至まて、深澤流といへり、是より下蒲田の方に至て呑川と唱ふ、下蒲田村にて六郷用水の枝流合し、又一流となり、御園、女塚、新宿、北蒲田、下袋の村々を経て、北大森村にて海に入」(「新編武蔵風土記稿巻之三十九荏原郡之一」より)

呑川本流は、世田谷区新町の旧厚木街道下から湧き出し、深沢を通って八雲三丁目から目黒区内に入る。一度東に向かった流れは、目黒通りの下をくぐる辺りから徐々に南へ向きを変え、東京工業大学脇から大田区へと抜ける。

呑川(のみがわ)には、柿の木坂支流、駒沢支流、九品仏川の3つの支流がある柿の木坂支流は、国道246号線の上馬交差点南、世田谷・目黒区境付近から生じる細流で、東横線都立大学駅北側で本流に入る。駒沢支流は、国道246号線の真中交差点の南にあった池から流出し、駒沢公園陸上競技場の下を通って八雲二丁目で本流と合流する。九品仏川は、九品仏で名高い浄真寺を取り巻く湿地の水が集まって、世田谷との区境を東流し、大井町線緑が丘駅南側で呑川(のみがわ)に注ぐ。水源の浄真寺周辺は、俗に奥沢の底なし田んぼといわれるほどの深田で、古くは奥沢城の自然の要害をなしていたとか。大正の終わりころまで鷺草(さぎそう)が自生し、鷺の谷の字名(あざな)もあったという。

暗きょ化される前の呑川

幕末から明治の初めにかけて、目黒の水田地帯は、目黒川・立会川(たちあいがわ)・呑川(のみがわ)の各流域に集中し、川べりには、精米・精粉の水車がのどかな音を響かせていた。水稲栽培にはなくてはならない呑川(のみがわ)ではあったが、雨が降り続くと辺り一面飲み込むがごとく水浸しにしたのがその名の由来といわれるほどの激しさも秘めていた。

その呑川(のみがわ)も、昭和47年から順次暗きょ化されて、今目黒区内で川面を見ることのできる場所は、緑が丘駅付近から大田区との区境を流れる部分だけである。

立会川(たちあいがわ)

碑文谷池と清水池から生じた細流が合流して立会川(たちあいがわ)となり、区の南部を東に向かって流れて、目黒線西小山駅ガード下から品川区へ入る。二つの池は、もとは湧水を人工的に貯めた灌漑用の溜池だった。

立会川(昭和20年代)

立会川(たちあいがわ)も、昭和20年代までは、小魚の多いきれいな小川で、子どもたちの絶好の遊び場だった。現在は、川にふたがかけられ、道路の中央に桜並木の歩道が続く、人優先の道となっている。

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