更新日:2013年9月12日

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歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

庚申信仰

路傍や寺院の片すみに、かつての庚申(こうしん)信仰の名残である庚申(こうしん)塔が、さまざまな姿でひっそりと建っている。民間信仰の中でも古いとされる庚申(こうしん)信仰の歴史を訪ねてみよう。

田道橋庚申塔

中国の道教が起源

庚申信仰は十干十二支(じっかんじゅうにし)の暦のうえで、60日ごとにある庚申の日(かのえさるのひ)に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教えのひとつ、庚申待ちが起源といわれている。人の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる虫がいて、庚申の日(かのえさるのひ)の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸(さんし)の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日(かのえさるのひ)は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった。

わが国では、平安時代以降に、貴族などの間で行われ、その後、仏教や神道などと結びついて庶民の間に広がり、江戸時代には最も盛んであった。

信仰と相互扶助を兼ねた庚申講

馬喰坂上庚申塔

庚申信仰の盛んになった江戸時代には、村の中に庚申講ができ、庚申の日には、講中の家々を順番に「お宿」という集会所にした。部屋には庚申様(青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)などの絵)の掛け軸を飾り、供え物をし、米や野菜を持ち寄って、徹夜で飲食歓談をしたという。また、この場は、講中のいろいろな相談や農作業の知識・技術研究、また、無尽の集まりでもあり、信仰と相互扶助の両面を兼ね備えていたのである。庚申塔は、こうした講の結束や存在を互いに確かめ合うために建てられたともいわれている。

区内には現在、約70基の庚申塔がある。形は、角柱型・板碑型・駒型・舟型・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・屋根付型など、いろいろある。最も古いのは、寛永3年(1626年)に建てられた、十七が坂上(目黒三丁目)の高さ2.25メートルの宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。これらの塔には、腕が6本で目が3つ、病魔を払うという青面金剛像や、見ざる・聞かざる・言わざるの三猿などの彫像、あるいは庚申供養という文字が刻まれている。


角柱型(平町二丁目、帝釈堂境内)


板碑型(平町二丁目、小堂内)

今も残る庚申信仰

江戸時代に盛んであった庚申信仰は、文明開化による科学や医学の進歩などから、明治以後、次第に衰えていった。しかし、道端の庚申塔に花を供える人びとの姿も見られ、バス停に清水庚申の名が残るなど、かつての庚申信仰は、今なお私たちの身近に残っている。

清水庚申

 

 

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