更新日:2013年9月12日

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歴史を訪ねて 目黒の道しるべ

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の道しるべ

街道筋や辻に立って旅人を導く道しるべ。道しるべが建てられるようになったのは、五街道をはじめとする交通路が整備され、わずかながらも生活にゆとりのできた庶民が、寺社詣でをするようになった江戸時代以降のことである。

郷土の石造文化財として、区内には約30基の道しるべが現存するが、度重なる道路改修や車の激しい往来によって、欠けたり移動させられたものも多く、今では目を止める人は少ない。

区内道しるべ

(この地図の守屋教育会館郷土資料室(目黒区五本木二丁目20番17号)は、平成20年9月21日より、めぐろ歴史資料館(目黒区中目黒三丁目6番10号)として開館しました。)

庶民が建てた道しるべ

区内に残る道しるべをみてみると、建立された時代は江戸時代、それも18世紀以降が大半で、明治時代、大正時代、昭和時代に建てられたのが、それぞれ1基ある。年代が分かっている道しるべの中で最古のものは、大聖院のみかえり阿弥陀道標(下目黒三丁目)で、宝永3年(1706年)の建立である。一番新しいのは、昭和3年に建てられた甘藷(かんしょ)先生墓道道標(下目黒三丁目)である。

これらの道しるべを建てたのはどんな人たちだったのだろうか。庚申講や富士講の仲間が集団で参拝するために建てたもの、見ず知らずの旅人の便宜を図るためのもの、辻の家が家族の長寿を記念したもの、中には在郷軍人会が建てたものもある。いずれにせよ、「お上」ではなく、庶民たちの手によって建てられたようである。

最も頻度の高い「池上」

道しるべに刻まれた地名は、当時どういう場所が栄え、どれだけ多くの人が集まったかを教えてくれる。区内の道しるべで、最も頻度の高い地名は「池上」である。これは日蓮宗の寺として知られる本門寺の方角を指している。次いで多いのが「目黒」「不動」「祐天寺」「九品仏」など。目黒不動や祐天寺、浄真寺が隆盛であったことを物語っている。

大山道道標

寺社以外では、渡し場のあった「二子」「丸子」東海道第一の宿場「品川」もある。刻まれた地名の中で、最も遠いのが「大山」である。相模大山の阿夫利神社は、農業などもろもろの神さまとして庶民の信仰が厚く、大山詣でが盛んであった。

度重なる道路改修で移動させられた道しるべがある一方、立派な雨風除けで保護されているものもある。それらの中から幾つかを紹介しよう。

大山道道標

大橋二丁目16番18号 天保13年(1842年)建立。正面に「大山道 せたがや通 玉川通」、右面に「右ひろう めぐろ 池がミ 品川みち」、左面に「青山 あさぶみち」とある。
大橋氷川神社石段下、玉川通りの車の排気ガスを受けながら立っている。大山道は、相模街道、矢倉沢往還、厚木街道ともいい、大山へ雨乞いに行く農民が通った道でもある。

田道橋道標

めぐろ歴史資料館(旧:守屋教育会館郷土資料室) 大正4年(1915年)建立。右面に「役場 世田谷」、左面に「三田村 目黒駅」とあり、時代を感じさせる。大正天皇の即位式を記念して在郷軍人会が建立したものである。元は田道橋のたもとにあったのだろう。

瀧前町講中道標

下目黒四丁目20番12号 明和5年(1768年)建立。地蔵坐像が刻まれている。瀧前町は、当時、その一帯の地名であった。

清水庚申

目黒本町一丁目10番18号 嘉永7年(1854年)建立。バス停の名になっているので知名度は高い。これもやはり道しるべを兼ねている。

仁義礼智道標

めぐろ歴史資料館(旧守屋教育会館郷土資料室) 弘化4年(1847年)建立。碑衾地区の道標は日蓮宗の影響が見られ、また、「二子」「丸子」の地名が刻まれているものが多い。この道しるべにも、「青山」「ぞうし谷」(雑司が谷)などと並んで「丸子」と刻まれている。左面には「行路是東西南北、人是原仁義礼智」とある。

瀧前町講中道標

九品仏名号題目道標

自由が丘三丁目1番1号 寛保4年(1744年)建立。施主は九品仏の浄真寺にゆかりの浄土宗信者だが、碑衾地区は日蓮宗信仰の盛んなところであったため、右面に「南無妙法蓮華経」、左面に「南無阿弥陀仏」と刻まれている。

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