更新日:2024年3月25日

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歴史を訪ねて 目黒の戦災

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

空襲で3割を焼失

昭和初期から兆しを見せ始めた暗い影がとうとう満洲事変、日華事変、そして太平洋戦争となって国民の生活を狂わせていった。目黒ももろにその影響を受け、昭和19年10月には国民学校の児童が山梨県と福島県に集団疎開させられるようなことも。

そして、空襲。昭和20年8月15日の終戦までに区の約30パーセントが焼き払われるという苦しみを体験。そうした戦時下の重苦しい世相の中で目黒区の住民は家族や隣人と協力しあって精いっぱい生きた。

目黒戦災焼失地域図(目黒区史より)

あいつぐ空襲

終戦が近づくにつれ、東京の空はあいつぐ空襲で赤く焼ける日が多くなった。しかし当初は、目黒区は比較的被害が少なく、東京の約4割を灰燼(かいじん)に帰せしめた昭和20年3月10日の大空襲にも、ことなきを得ていた。だが、やがて4月15日以降、さらに数次の空襲により、ついに区内の一部に被害を受け、多くの家屋が焼失し、死者までも生ずるにいたった。

すなわち、4月15日夜から16日未明までのB29約200機の焼夷弾による波状攻撃で、唐ケ崎町・鷹番町・中目黒2から4丁目・上目黒5丁目・自由ケ丘・原町・洗足・月光町・碑文谷3丁目・緑ケ丘地区では、死傷者76名、全焼家屋2,348戸、罹災者1万1,000名という被害を受けた。

さらに、5月24日、B29約250機が、東京の西部方面に侵入、約2時間にわたり波状じゅうたん爆撃を行い、焼夷弾投下によって広範囲な火災が発生。疾風が起こって火は火を呼び、大被害を生じた。

「空襲警報が鳴って、私たち警防団員は集団疎開で児童のいない五本木小学校に集まった。そこへ焼夷弾が落ち、パチパチ飛び跳ねた。屋根に落ちたのをさおでたたき落とす。無数の油脂焼夷弾が校庭に落ちたが、幸い校舎の炎上は免れた。だから助かったんです。校舎が燃えれば、南風に乗って私らの住んでるこの辺も燃えてしまったでしょうね」
家族を疎開させ、目黒に残って耐え抜いた古老は、空襲の恐怖をこう語っていた。(区制施行50周年記念写真集・「あの日この顔」より・故高品初太郎氏の空襲体験談)

このときの被災地区は、上目黒・中目黒・下目黒・清水町・鷹番町・三谷町・唐ケ崎町・向原町・月光町・東町であり、月光原・油面の国民学校は全焼、区役所の一部も焼失し、死傷者608名、全焼家屋9,200戸、罹災者3万4,600名であった。

ついで翌5月25日夜の空襲で残存していた東京市街の大部分が焼失。このときは、鷹番町・芳窪町・三谷町・柿ノ木坂・駒場町・上目黒・下目黒に被害を受け、死傷者539名、全焼家屋5,087戸に及んだ。

人口4割減少

このように悲惨な被害を被ってようやく終戦を迎えるのであるが、戦争終結までの目黒区における被災状況は死者291名、負傷者1,553名、全焼家屋2万6,095戸、罹災者10万3,425名となっている。そして、終戦時、戦禍の中になお居住していた人びとは、3万2,064世帯、10万213名であった。実に区内人口の約4割が減少したのだ。

昭和20年8月15日、敗戦を知らせる玉音放送が永かった戦争の終わりを告げた。そして、疎開先から、戦地から、多くの人びとが目黒へと戻ってきた。そうした人びとが一様に目を見張ったのが、ふるさと目黒の惨状だった。なにしろ区内面積の約30パーセントが空襲の被害を受け、辺り一面、焼け野原。

しかし、いつの間にか焼け跡にバラックが建ち並び、生活の煙が立ち始めた。目黒の力強い再建が始まった。

注記 ここで記した町名は、いずれも当時の町名で、必ずしも現在とは一致しない。

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