更新日:2024年2月15日

ページID:1845

ここから本文です。

歴史を訪ねて 目黒の水車

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の水車

農業は川のほとりに生まれた。人は水路を掘り、土地を耕やし、文明を築いた。工業もまた、川のほとりに生まれた。田畑を潤した水は、今度は動力源として、また、輸送のために使われるようになったのである。目黒の工業も、目黒川などの川のほとりに建てられた水車小屋に始まる。

水車のある風景

江戸時代も元禄期以降になると、農村は、それまでの自給自足の生活から貨幣経済へと変化し始めた。このころから、農業生産力は上がり、農民は年貢の残りを売るようになった。やがては、商品作物を栽培したり、水車で農産物を加工するようにもなった。

幕末から明治初期までに、区内の用水や川にも次々と水車が作られた。水力を利用して、米をつき、粉を挽いたのである。精白米は、商品として売るほか、一部は濁酒醸造に回されていたようである。広がる田畑、うねる川、そして水車の回る音。のどかな風景が想像されるが、当時の農民たちにすれば、大問題であった。

三田用水はかんがい用水として、享保9年(1724年)から、世田谷・渋谷・目黒・品川の周辺14カ村が管理に当たっていた。この用水にも、何カ所か水車が設けられたのだが、流水を加減するためにあふれたり、よどんだり、ごみが流れたりで、清い水が滞りなく流れるという状態ではなくなってしまった。そこで三田用水組合は、明治6年、水車の新設は認めないという申し合わせをし、同8年には、水車営業者と組合の間で、用水管理の「約定証書」を取り交わしたのである。

しかし、こうした取り決めにもかかわらず、水車はその後も増設され、設備拡張されていた。明治13年、目黒地域の水車場は17から18カ所あった。その多くが目黒川に設置されていたのは、流水量が豊富で、しかも市街地に接していて商品流通面で便利だったからである。水車の車輪は普通、直径4尺(約120センチメートル)以上、杵(きね)も数本から、大きいところでは、十数本を数えたという。

区内水車場分布図

三田用水をめぐる水争い

水車を動力とする在来の産業に対して、区外から大工場がやってきた。明治18年には目黒火薬製造所が、同20年には日本麦酒醸造会社(サッポロビール株式会社の前身)が三田村で操業を開始したのである。両工場とも、三田用水を大量に使ったので、農民たちは、水車に次いで、この工場を相手に「水争い」をするはめになった。

日本麦酒醸造会社は、三田用水普通水利組合に対して、明治21年と22年の2回、使用水量の増量を願い出て許可された。しかし、同31年に出された申請には、組合は許可を与えなかった。そのうえ、組合認可以外の用水引込管が日本麦酒の構内で発見されたのである。その後、どういういきさつがあったかは定かではないが、結局、組合は使用料を年額30円からいっきょに130円に値上げして、この申請を認めた。

水車小屋から小工場へ

日清戦争が起きた明治20年代後半以降、資本主義の急速な発展は、水車経営にも大きな影響を与えた。それまで精米、製粉に限られていた水車営業が、煙草製造・ガラスみがき・薬種精製・活版墨汁練りと、農業から離れ、小規模ながら工場としての動きを始めたのである。もっとも、この動きは、市街地に近い目黒川流域だけで、呑川流域では、あいかわらず精米や製粉を行っていた。

明治28年、三田用水普通水利組合の歳入予算は、かんがい用水の使用料が3割弱、火薬製造所・日本麦酒・38カ所の水車営業者からの使用料を含む雑収入が5割以上を占めている。水争いを繰り返しながら、三田用水は、次第にかんがい用水から工業用水へと性質を変えていったのである。

三田用水利用水車の設備変更状況 明治30から31年(三田用水組合所蔵文書)
所在地 持主名 旧設備 新設備
大崎村下大崎 須田兼五郎 4斗臼 15
1斗臼 1
4斗臼 18
大崎村上大崎 外山角次郎 4斗臼 24
1斗臼 2
4斗臼 32
1斗臼 2
芝白金今里町 松原保之助 4斗臼 21
3斗以下臼 5
硝子磨き器機 5
4斗臼 24
1斗臼 2
硝子磨き器機 5
目黒村中目黒 大井甚兵衛 4斗臼 24 4斗臼 18
煙草製造器械 6
目黒村三田 小澤音松 4斗臼 3
1斗臼 9
挽割臼 1
1斗臼 9
挽割臼 2
大崎村下大崎 高橋林之助 (新設) 活版墨汁煉器械

 

現在の目黒川

このように、水車は目黒の工業の発展に大いに貢献した。しかし、旧市内に電力による精米機が現れ、また、目黒川改修工事が大正12年から始められたのを機に、姿を消していった。

お問い合わせ

区民の声課 区政情報コーナー