更新日:2013年9月12日

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歴史を訪ねて 目黒区誕生 2

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

幻の朝日町

碑衾(ひぶすま)町は、実は昭和6年4月1日に、「朝日町」と改称する予定であった。この町名変更は、「碑衾(ひぶすま)」の読み誤りや書き誤りが多いため公募のうえ決定したのだが、市郡合併が現実味を帯びてくると、立ち消えになってしまった。

一方、市域拡張は、東京府・東京市・82町村の間で細かな詰めが行われ、慌ただしいなかにも着々と準備が進められていた。昭和7年市郡合併によって、東京市は35区、人口497万人となり、世界第2位の人口を抱える大都市になった。目黒区は、その一画を占めたのである。

合併案

新20区の編成

隣接5郡82町村を合併し、20区に編成する案は、合併決定直前に府知事から市長へ送られた諮問に出てくる。

その後、東京市が10項目の基準(人口は14万から20万をだいたいの基準とする。交通機関の利用関係沿革、風俗、習慣、政治関係等を考慮するなど)に基づいて作成した案に「目黒町、碑衾(ひぶすま)町を合体すると、人口は10万8,208人となり、目黒警察署管轄区域でもあることから、名称は目黒区とする」とある。市の新20区案に対して修正案を出した町村もあったが、目黒・碑衾(ひぶすま)両町は昭和2年に東横線が開通していたこともあって、合併して「目黒区」となることに抵抗はなかった。区役所については、準備期間が短いので、取りあえず中目黒正覚寺山門横にあった目黒町役場をもって目黒区役所とされた。

目黒区庁舎位置のうつりかわり

それに対して碑衾(ひぶすま)町は、区の中央に区役所を置くよう、中野治町長を先頭に2度にわたって東京市に陳情した。その結果、「貴意に添うようにしたい」との回答を得、旧碑衾(ひぶすま)町の人びとの念願がかなって、庁舎が以前の地(中央町二丁目)に移ったのは、昭和11年のことであった。新庁舎の総工事費は26万7,490円余りとか。

地名の大整理も行われた。子ノ神(ねのかみ)・谷畑前など、このとき消えた地名は多いが、緑ヶ丘など新しい地名も生まれた。改正町名が発表されるや、これに不満な人や従来の地名に執着する人びとが殺到、「役場は一時鼎(かなえ)の沸くが如き観を呈した」(碑衾(ひぶすま)町誌)という。

目黒と碑衾の地域差

2つの町の都市化の進行程度には、若干の違いがあった。目黒町は渋谷町営水道から、碑衾(ひぶすま)町は玉川水道株式会社から給水を受けていた。渋谷町営水道は、市都合併と同時に市営水道に吸収され、旧目黒町民は、1ヵ月10立方メートル当たり1円50銭だった水道料が93銭に値下げになるという恩恵を受けた。

ところが、旧碑衾(ひぶすま)町民は、昭和10年に玉川水道株式会社が市に買収されるまで、1円80銭を支払っていた。塵芥(じんかい)処理やくみ取りについても、旧目黒町は市郡合併と同時に市営になったが、旧碑衾(ひぶすま)町に市営清掃が実施されたのは、昭和9年である。

区が誕生した当初は、こうした違いを解消することが区行政の最大の課題だった。

「自治」を求めて

初代区長に市参事会選任の千葉胤次(たねつぐ)を迎えてスタートした目黒区の機構は、庶務・社会・戸籍兵事・保健土木・税務・会計の6課から成り、職員数は143人であった。

合併直前、昭和6年度の目黒町の歳出額は約104万円、碑衾町は38万円であったが、昭和7年度の目黒区の歳出額は、30万円、8年度は41万円であった。これは、町時代の事業の多くが東京市に移管されたためである。歳入では、国庫下渡金に代わって市補助金が新設され、4割を占めていた町村税に代わる区に属する市税は2割程度に低下した。つまり、合併によって目黒区は、大都市を構成する地位を獲得したと同時に、市の内部機構になったことで、行財政とも制約を受けるという結果にもなったのである。

財政の変化

その後、昭和22年には、35区が現在の23区となり、同年5月に施行された地方自治法によって、地方公共団体の地位を保障されて特別区となり、初めて区長が公選によって選ばれた。しかし、これは長続きせず、27年には、都知事の同意を得て区議会が選任する間接選挙に改められた。各区はこれに満足せず、自治権拡充運動を続けた。

熱心な運動が実を結んで、再び区長公選制が実現したのは、昭和50年4月1日のことである。

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