更新日:2013年9月19日

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歴史を訪ねて 目黒の鉄道 1

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の鉄道 1

目黒を背骨のように貫く東横線、それに接続する地下鉄日比谷線、南に目黒線・大井町線、北に田園都市線・井の頭線、東に山手線と、区内には七系統の鉄道が走っている。目黒の発展に、これら鉄道は大きな役割を果たしてきた。

品川区にある目黒駅

山手線(やまのてせん)は、わが国の重要な輸出品であった生糸輸送のために、明治18年、品川から赤羽間に品川線が敷設された。開設した駅は、品川駅・目黒駅・渋谷駅・新宿駅・目白駅・板橋駅と6駅であった。同36年、田端から池袋間に豊島線が開通し、品川線と併せて、山手(やまのて)線と呼ばれることになった。戦後、占領軍がローマ字表示を、「ヤマテ=ループ=ライン」と誤記したため、以来「山手線」(やまてせん)と呼ばれていたが、昭和46年に山手線(やまのてせん)に戻った。

目黒駅は、駅名こそ目黒だが、所在は品川区である。当初の計画では、山手線(やまのてせん)は目黒川沿いに渋谷へ続く予定で、目黒駅は文字通り区内に建設されるはずだった。これに対して地元の農民は、煙や振動が農作物に及ぼす影響を心配して、のぼりを立てねじりはち巻きのデモ行進までやって、駅を現在の権之助坂上に追い上げたという。俗にいう目黒駅追上事件である。事件の真偽は、資料がないので定かではないが、目黒駅が権之助坂上に変更されたことで、目黒が近代化への最初のきっかけを逸したことは否定できない。

人も運ぶ「ジャリ電」

区内に初めて駅ができたのは、明治40年のこと、玉川線大橋駅がそれである。渋谷と玉川を結ぶ玉川線は、当初、開設した玉川砂利電鉄株式会社の名のとおり、多摩川で採取した砂利を運ぶ産業用輸送機関の色合いが濃かった。開通当初は、客車と砂利運搬の貨物車が、連結されて走る風景が見られた。

明治期にできた目黒地域の鉄道

玉川線は、地下鉄新玉川線(現在の田園都市線)に生まれ変わったが、枝線の世田谷線は、今でも「玉電」の愛称で親しまれている。

震災直後開通した目蒲線

目蒲線(現在の目黒線)は、後に開通する東横線に次いで、目黒地域の発展に大いにかかわってきた。

大正7年、実業界の実力者渋沢栄一子爵が中心となって設立した田園都市株式会社は、現在の田園調布、大岡山、洗足地区に広大な土地を買った。当時は人家もまばらな農村地帯だったが、渋沢子爵らは、この土地に近代的に整備された田園都市を建設することを夢見ていたのである。そのためには、どうしても鉄道が必要だった。目黒蒲田電鉄株式会社が、大正11年、こうして設立された。

目蒲線の開通を控えた大正12年9月1日、東京ばかりか、日本中をも揺るがす天災が起きた。関東大震災である。東京市に壊滅的な打撃を与えた大震災だが、皮肉なことに目蒲線の発展には、大きなはずみを与えたのである。

人口が集中し、すでに飽和状態であった東京市は、この震災で多くの死傷者を出した。生き残った市民は、より安全な所、より住みよい所へと、続々と郊外へ散った。

多少の被害は受けたものの、目蒲線は同年11月無事開通した。沿線には、折しも被災者が一時の住まいを求めて集まり、そのまま住みつく人も多かった。原町、月光町、大岡山、洗足の人口は、この時期、一挙に増えた。目蒲電鉄は、順調に経営成績を伸ばし、次々に周辺の電鉄会社を吸収合併して、現在の東京急行電鉄株式会社の母体となった。

大正期にできた目黒地域の鉄道

東横線、田園を行く

明治、大正期に開通した鉄道は、いずれも区の端を通るものであり、その恩恵を受ける人びとも限られていた。目黒の真ん中を通る鉄道を待つ声が出るのは、当然の成り行きであった。碑衾(ひぶすま)村、目黒村を通る路線の免許は、すでに大正10年におりていたのである。しかし、資金難と土地買収の壁にぶつかって、工事はなかなか進展しなかった。大正13年に設立された東京横浜電鉄株式会社の手で東横線が開通するまで、あと6年の歳月を待たなければならなかった。

当時の目黒地域は、まだ田畑や竹林の多い農村地帯であったが、都市化の波は、ここにも確実に押し寄せていた。目黒が住宅地として脚光を浴びた震災後は、宅地の値上がりが激しく、農家は賃貸料で暮らせるほどだった。そんななかで、都市化の波に呼応する動きがあった。地主を中心に、十余りの耕地整理組合が組織され、耕地整理事業が進められたのである。これに助けられた形で、目黒を縦断する東横線が開通したのは、昭和2年のことであった。

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