更新日:2024年2月15日

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歴史を訪ねて 目黒の鉄道 2

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の鉄道 2

震災によって壊滅的な打撃を受けたにもかかわらず、人びとの底知れぬエネルギーによって、東京市は徐々に復興し、やがて地方から上京する人も増えた。目黒地域は市内の被災者ばかりでなく、上京者をも受け入れるようになったわけで、人口は増加する一方だった。こうした動きに伴い、目黒村は大正11年に、碑衾村(ひぶすまむら)は昭和2年に、それぞれ町政を施いた。

昭和初期に開通した鉄道

昭和初期には、区内に4系統の鉄道が開通した。まず、昭和2年に玉電中目黒線(恵比寿駅前から中目黒間)と東横線(渋谷から丸子多摩川間)が、次いで同4年に大井町線、同9年に井の頭線が全線開通している。特に、目黒地域のほぼ中央を縦貫し、目黒町に2駅、碑衾(ひぶすま)町に3駅を開業した東横線の開通は、目黒地域を東京市の近郊農村から住宅地へと一変させる大きなきっかけとなった。

昭和期にできた目黒地域の電鉄

竹林を切り開いて

東横線を経営する会社は、当初、東京横浜電鉄といい、目黒蒲田電鉄の傘下(さんか)にあった。従って東横線の建設は、目蒲線への影響を考慮して、何期かに分けて進められたのである。

第1期工事は、大正15年に営業を開始した丸子多摩川から神奈川間(神奈川線)。渋谷から丸子多摩川間(渋谷線)については、目蒲線と並行路線であるので、丸子多摩川から神奈川間を建設して目蒲線と直通運転を行い、目蒲線が成長してから着手するようにと、目蒲電鉄からの強い申し入れがあり、昭和2年に開通した。以後、神奈川から横浜間が昭和3年、横浜から桜木町間が同7年に開通し、全線合わせて東横線となった。沿線には竹林を切り開いた所が何カ所かあり、目黒の特産のタケノコが鉄道に場所を譲る形となったのである。

東京市目黒区の誕生

槍ヶ崎から中目黒駅方面

鉄道開通により、今まで点のように建っていた住宅は、やがて道路沿いに増え、線となっていく。区内の住宅の増加はすさまじい勢いだった。渋谷から丸子多摩川間が開通した昭和2年の区内住宅新築棟数は510軒だったが、2年後には1,829軒にものぼった。毎日約5軒の割合で住宅が増えていったことになる。これに工場や商店が加わることを考えれば、その発展ぶりは計り知れないものがある。

こうなると町政では対応しきれなくなり、昭和7年10月1日、5郡82カ町村が東京市に編入されるのに伴い、目黒町と碑衾町が合併して、東京市目黒区が誕生したのである。くしくも、この年を境に目黒地域の宅地面積は耕地面積を上回るようになり、山の手の住宅地へと急激な変ぼうを遂げていった。

学校の誘致

住宅地目黒のイメージアップに一役買ったのは、学校の誘致であった。学校ができれば文教地区として文化的雰囲気が漂い、住宅地としての価値は上がる。また、鉄道についていえば、朝、渋谷へ向かう上りがサラリーマンで混んでも、下りはガラガラ、夕方はその反対という片道輸送も、学校誘致により解消される。電鉄会社にとっては願ってもないことだった。

当初、区内の東横線の駅名は、中目黒、祐天寺、碑文谷、柿ノ木坂、九品仏であった。しかし、碑文谷駅は昭和10年に青山師範学校が隣接の世田谷区に建てられたとき、「青山師範」に変わり、18年に「第一師範」、さらに「学芸大学」となった。当の大学は39年に小金井市に移転したが、駅名だけはそのまま残った。

柿ノ木坂駅も、昭和7年に府立高校が赤坂山王から移転してきたので「府立高校」になり、さらに「都立高校」、戦後「都立大学」と変わった。また、都立大学も平成3年に八王子へ移転したが、駅名はそのままである。

九品仏駅は、昭和4年に大井町線が大岡山から二子玉川まで延長される際に「自由ヶ丘」と改めた。

目黒と都心を結ぶパイプ

昭和初期に開通した鉄道は以上だが、昭和39年、都心へ直結する路線として、新たに東横線中目黒駅で相互乗り入れした地下鉄日比谷線が開通した。しかし、42年には、玉電から市電、市電から都電へと名を変え走り続けた中目黒線が、道路交通事情などから廃止され、次いで44年には長い歴史を有した玉川線が、その幕を閉じた。

玉川線に変わって、52年に地下鉄新玉川線が誕生した。平成15年半蔵門線の延伸を期に田園都市線へ名称が変わり、玉電の名残りは消えてしまった。これらの新路線は、目黒と都心を結ぶパイプとして、通勤時間の短縮、混雑緩和に大いに貢献し、きょうも大勢の人びとを都心に運んでいる。

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