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更新日:2024年3月25日

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目黒の地名 大原町(おおはらまち)

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 大原町

「大原町」は、昭和7年、目黒町と碑衾(ひぶすま)町が合併して目黒区が誕生した際、新たに登場した地名である。それまでは、東京府荏原郡碑衾町大字衾字東大原・東梶屋敷(ひがしかじやしき)・東池淵・東前原(ひがしまえはら)と、また明治22年の町村制施行前には、衾村字東根と称していた。しかし、「大原町」という地名は、区内住居表示施行の第一号として昭和39年、東が丘二丁目と八雲五丁目の一部となり、32年間で姿を消してしまった。

そもそも「大原町」は、一帯が大きな原っぱであったことにちなんだ地名と伝えられている。そこでその大きな原っぱの歩みを紹介してみよう。本区の南西端に位置する「大原町」は、隣りの世田谷区にかけての一帯が、原野でウサギ、野鳥などがたくさんいたといわれている。

その一帯に東京ゴルフ倶楽部がオープン(敷地の大部分は世田谷区駒沢側)。各国大公使、華族なども名を連ね、野鳥が飛び交う原野は、一大社交場と化した。その後、目黒蒲田電鉄(今日の東急電鉄株式会社)がゴルフ場を譲り受け、昭和7年、パブリックコースとして、駒沢ゴルフ場がオープンしたが、好評を博し、自由ヶ丘駅には専属の送迎自動車を常備させたほどであった。

東京オリンピック 聖火リレー

其の後、軍に接収され、戦後は都営競馬場誘致の動きもあったが野球場となり、東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)のフランチャイズ球場としても使われた。そして昭和39年の東京オリンピック開催会場となって、今日の駒沢オリンピック公園となったのである。

この「大原町」が本格的に開けたのは、戦後からオリンピック開催を目指した昭和三十年代であったが、奇しくも、オリンピック開催年に地名「大原町」は姿を消した。

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