更新日:2023年9月12日

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地名・ゆかり

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

田園都市線・井の頭線エリア

青葉台(あおばだい)

駒沢通りを中目黒交差点から恵比寿に向かい、新道坂上の鎗ヶ崎を左折して、代官山派出所に沿って曲がると、うっそうと樹林の繁る目切坂があります。この坂を下っていくと、目黒川に架かる宿山橋に出ます。ここから山手通りの松見坂交差点に至る、目黒川に南面する淀橋台地の傾斜地が「青葉台」です。

大橋(おおはし)

頭上を首都高速、地下を田園都市線が走る交通の大動脈・玉川通り。目黒区を通る唯一の国道であるこの通りが山手通りと交差する、区内きっての交通の要路「大橋」の歴史は、玉川通りの変遷を抜きにしては語ることができません。

烏森(からすもり)

「烏森」という地名は、明治22年の町村制が施行されたときに、目黒村大字上目黒の字名として誕生しました。それまでは、周辺を含めたこの辺り一帯を宿山と呼んでいました。

駒場(こまば)

「駒場」は、駒込、駒沢と同様に武蔵野一帯にある「馬」にちなんだ古い地名の一つで、馬の牧場を意味します。「駒」とは馬のことであり、「場」は牧場を指し、ここで産出した良馬は古代・中世にかけて軍馬として重用されました。

菅刈(すげかり)

十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられています。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとされています。

東山(ひがしやま)

今日、住居表示としてはもちろん、小・中学校名、さらに住区の名称となって広く知られる「東山」。もとは、旧目黒六カ村の一つ、上目黒村の小字名です。当時の字「東山」は現在よりかなり狭く、また、その地名の由来も、今は地名としては姿を消しました。旧上目黒村の中心的集落「宿山」の東方の地という程度の理由から名付けられたものといわれています。

別所(べっしょ)

目黒が六か村に分かれていたころ、現在の駒沢通り辺りから駒場に至る広い地域は、上目黒村と呼ばれていました。「別所」は、この上目黒村の字名の一つで、現在の青葉台一丁目、上目黒一丁目、中目黒一丁目にあたる一帯が、その地域です。

東横線・日比谷線エリア

油面(あぶらめん)

「油面(あぶらめん)」は、衾(ふすま)・碑文谷(ひもんや)などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つです。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面小学校、油面公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、その長い歴史に新たな1ページを加えています。

唐ヶ崎(からがさき)

唐ヶ崎の地名だが、「新編武蔵風土記稿」巻四十六、荏原郡之八、馬込領の項に碑文谷村の字名として掲げられています。また宝暦十三年(1763年)の荏原郡碑文谷村絵図にもその名があり、徳川時代に唐ヶ崎という地名があったことは確かです。

五本木(ごほんぎ)

「五本木」のほか、かつての「中一ツ木」(現八雲三丁目付近)、隣りの港区の「六本木」など、数字と木が組み合わされた地名は、数多く存在します。

蛇崩(じゃくずれ)

今日、「蛇崩(じゃくずれ)」という地名は見当たりません。明治22年の町村制施行によって、目黒村大字上目黒の字名として登場、大正11年の町制を経た後も親しまれていたが、昭和7年の目黒区誕生を機に姿を消しました。

鷹番(たかばん)

現在の住居表示としてはもちろん、「住区」の名称としても広く知られる「鷹番」は、また、昔の目黒の姿を今に伝える数少ない地名の一つです。

田切(たぎり)

「田切」とは、ゆるやかな傾斜地に川が流れ、その両岸ががけのようになっている所をいい、古語で「たぎる」とは、傾斜地やがけなどで、水が早く走り流れ落ちるさまを表します。昔、この辺りは蛇崩川とその支流の中の沢の流域で、文字どおり「たぎられた」ところがあり、そこから「田切」という地名が生まれたのではないかといわれています。

祐天寺(ゆうてんじ)

「祐天寺」は、比較的新しい地名です。昭和43年1月1日の住居表示施行によって、それまでの上目黒四・五丁目、中目黒三丁目のそれぞれの一部分が「祐天寺一・二丁目」となったのでした。

大岡山(おおおかやま)

文字で書けば「大岡山」だが、せっかちな関東弁のせいか、「オオカヤマ」と発音するのをよく聞きます。「目黒区大観」によると、「明治中ごろの郵便集配区域を明記した表に、碑衾村・衾・大官山とあり、かつては、オオカンヤマと呼ばれていた時代もあった」と記されています。

大原町(おおはらまち)

そもそも「大原町」は、一帯が大きな原っぱであったことにちなんだ地名と伝えられています。そこでその大きな原っぱの歩みを紹介します。本区の南西端に位置する「大原町」は、隣りの世田谷区にかけての一帯が、原野でウサギ、野鳥などがたくさんいたといわれています。

柿の木坂(かきのきざか)

現在は真っすぐでなだらかだが、かつての「柿の木坂」は、西側へ大きく湾曲した急坂で、神田や京橋の市場へ野菜を出荷するため、この坂を通らなければならない目黒や世田谷の農民たちにとって、道中屈指の難所でした。

自由が丘(じゆうがおか)

現代感覚にあふれるしゃれたショッピング街と山の手らしい閑静な住宅街が共存するまち「自由が丘」。今日のそんな町並みにいかにもふさわしい斬新な地名だが、その由来は、東横線・大井町線が相次いで開通した昭和初期にさかのぼります。

中根(なかね)

今日の東急東横線都立大学駅辺りの荏原台という台地から呑川に滑り込む傾斜地一帯を中根といいます。一般に地名には、地形、地理にちなんだものが多く、中根はその一つです。

東が丘(ひがしがおか)

「東が丘」という地名が誕生したのは、昭和39年7月1日、東京オリンピックが開催された年です。同年から住居表示制度が本区でも実施されることになり、この東が丘は、八雲と同時に、初名乗りを上げたのでした。

衾(ふすま)

「衾(ふすま)」は、「碑文谷(ひもんや)」とともに、目黒の歴史を語るとき欠かすことのできない、目黒の代表的な地名の一つです。目黒が六カ村に分かれていた江戸時代、現在の環七通りの南側全域が「衾(ふすま)村」と呼ばれ、明治22年に碑文谷ひもんや村との合併により「衾村」の名が消えたのちも、「衾」の名は、合併後の村名「碑衾(ひぶすま)村」(昭和2年からは碑衾町)に継承されるとともに、旧衾村全域の大字名として生き続けました。

緑が丘(みどりがおか)

昭和7年10月1日に目黒区が誕生したのを機会に、町名変更が行われ、幾多の町名が姿を消す一方で、新たな町名も登場しました。「緑ヶ丘」もその新しい町名の一つです。今日では「緑が丘」と表すが、当時は「緑ヶ丘」。住居表示の施行で「ヶ」が「が」に改められました。

八雲(やくも)

八雲は、「やくも」と読み、「やぐも」のように濁りません。この八雲という地名は、八雲二丁目にある素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭る氷川神社と深くかかわっており、なかでも日本神話を抜きにしては語れません。

目黒線・大井町線エリア

洗足(せんぞく)

「洗足」は、品川・大田両区の間に角のように突き出た区境のまち。その地名の由来は、大田区の南・北千束とともに、中世のこの辺り一帯の地名「荏原郡千束郷」にさかのぼります。

子ノ神(ねのかみ)

「子ノ神」は、町村制施行(明治22年)以前の碑文谷村の小字名で、今日の南一丁目から三丁目一帯が、およそその地域に当たります。なお南一丁目のごく一部の地域には、明治22年以降もこの地名が残っていましたが、昭和7年の目黒区誕生を機に姿を消しました。

碑文谷(ひもんや)

碑文谷の地名の起こりについては、諸説があります。まず、通説となっているのが、「碑文石」を起源とする説です。八幡宮境内の稲荷社に保存されている碑文石は、昔、八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたもので、梵字が刻まれており、室町時代のものと鑑定されています。碑文谷とは、碑文を彫った石のある里(谷)を意味するという説です。

目黒本町(めぐろほんちょう)

地名に誕生日があるとしたら、「目黒本町」のそれは昭和41年3月1日に当たります。昭和39年から進められてきた区内の住居表示化によって、それまでの東町、月光町、向原町の全域と、清水、碑文谷一丁目から二丁目の一部地域を、「目黒本町一丁目から六丁目」としたのでした。

山手線目黒駅・目黒通りエリア

目黒(めぐろ)

目黒区の目黒という地名は、一体、何に由来しているのでしょうか。興味を抱いた先人、今人たちはさまざまな説を展開しているが、残念ながらその真偽は明らかとなっていません。その説とは。

伊勢脇(いせわき)

伊勢脇は、目黒村、目黒町時代の字名です。目黒村が大正11年に目黒村になっても「東京府荏原郡目黒町大字上目黒字伊勢脇」として親しまれていました。それが、昭和7年の目黒区誕生を機に、「東京市目黒区上目黒1919番から2107番地」と改まり、地名伊勢脇は消え去りました。

千代が崎(ちよがさき)

権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(目黒区三田二丁目10番)辺りまでの目黒川沿いの台地を「千代が崎」といい、かつて目黒元富士、目黒新富士、爺ヶ茶屋、夕日が丘と並び富士をながめる絶好の場所で、江戸名所の一つでした。

田道(でんどう)

「田道」は「でんどう」と読み、明治22年以前の中目黒村の小字の一つです。同村内には田道裏、田道耕地という田道にちなむ小字名も存在していました。

三田(みた)

「三田」は、区内で一、二を争う古い歴史をもつ地名です。その由来は、遠く大化の改新以前にまでさかのぼるといわれています。

六畝割(ろくせわり)

六畝割は、今日の目黒本町一丁目地域を指します。かつては「こなべの」と呼ばれていたというこの地域が、いつから六畝割になったのでしょうか。

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