更新日:2023年9月12日

ページID:9842

ここから本文です。

歴史を訪ねて

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

 

田園都市線・井の頭線エリア

近代農法発祥の地・駒場

区内に残るただひとつの水田です。駒場二丁目にある水田は、かつての駒場農学校農場の一部で、わが国で初めて水田での肥料試験が行われた地として「ケルネル田圃たんぼ」とも呼ばれ、農学史を飾る由緒ある水田です。

 

駒場農学校

駒場農学校は、現在の東京大学教養学部、駒場公園、東京大学駒場リサーチキャンパス、駒場野公園(旧東京教育大学移転跡地)にまたがる約6万坪の敷地で、明治11年に開校されました。その後、次第に拡張され、最盛期といわれる明治17年には、敷地面積が16万5,000坪に達し、欧米の農作物を試植する泰西たいせい農場、在来農法の改良を期した本邦農場、家畜病院、気象台、園芸・植物園などを持つ、さながら農業の総合教育・研究所でした。

 

旧前田家本邸

井の頭線駒場東大前駅から、しょうしゃな住宅街を歩くこと10分、目黒区立駒場公園に着きます。石造りの門を入ると、左手に木の間隠れに和館が見えてきます。さらに奥へ進むと、若草色の屋根に赤レンガ張りの洋館が目の前に現われ、この洋館と和館が、旧前田家本邸です。

 

西郷山の従道邸

青葉台二丁目周辺は、別名西郷山とも呼ばれています。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道じゅうどうが付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからとされています。

 

駒場野一揆

嘉永6年(1853年)6月、浦賀に現れた黒船は、天保の改革に失敗し傾きつつあった江戸幕府の土台を、一層揺るがすことになりました。開国は、輸出の急速な伸びによる物価騰貴を招き、対外政策における幕府の無力さが人びとを不安にさせ、江戸近郊の野菜の生産地目黒も、時代の動きに無関係ではありませんでした。農民たちが竹やりを持って、幕府の役人に立ち向かうという事件もあったのです。

 

駒沢練兵場

明治30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものでした。その後、駒沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営が続々と建てられ、駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊でした。

 

東山貝塚遺跡

区内には、これまでに54か所の遺跡が確認されており、なかでも縄文時代中期の遺跡は43か所と区内の遺跡の中で最も多いです。しかも、これらの遺跡のうち、東山貝塚遺跡や油面遺跡、大橋遺跡などは大規模な集落であったことが発掘調査によりわかってきています。

 

目黒の鷹狩り 1

目黒といえば、さんま・タケノコ・不動尊で広く世間に知られています。これらは徳川歴代将軍の鷹狩りと深いかかわりがあり、目黒の近世史を語るうえで、将軍家の鷹狩りを見過ごすわけにはいきません。

 

目黒の鷹狩り 2

享保元年(1716年)の鷹狩り復活後、目黒筋の中で最も利用されたのは駒場野でした。現在、その大部分は東京大学教養学部が占めているが、当時の駒場野は人の背丈ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林が茂る広大な原野(約16万坪といわれる)で、キジやウズラなどの野鳥をはじめイノシシ、ウサギなどがたくさん生息していたといわれています。

 

東横線・日比谷線エリア

碑文谷池・清水池(ひもんやいけ・しみずいけ)

武蔵野台地の東南端に位置する目黒区は、起伏に富んだ、坂の多いまちとして知られています。また、そうした地形から区内の各所で見られるのが、自然の湧水です。

 

耕地整理組合

「住みよい街づくり」が求められることは今も昔も変わりません。50年以上前、東京市近郊の農村ではすでに街づくりの基礎が進められていました。曲がりくねったあぜ道を広げて、条理を整え水道を引く。その都市化を進めたのは、行政ではなく、地主たちが中心になって設立した耕地整理組合でした。

 

鷺草(さぎそう)伝説

衾ふすまの不思議三つござる 曲り松 鷺草に 竹の二股

大正のころまで、目黒でもところどころに見られた麦畑。収穫時ともなると、クルリ棒で麦の穂を打ちながら歌われた麦打ち歌が、聞かれたものです。この里謡に歌われている鷺草(さぎそう)とは、ラン科の多年草で、高さ約30センチメートル。夏になると、すらりと伸びた細い茎の頃に、空を舞う白鷺しらさぎにも似た、純白の小さな花を2から3個つける。その姿の可憐さ、不思議さから幾つかの説話が生まれ、今日にまで語り伝えられています。

 

目黒線・大井町線エリア

「碑文谷(ひもんや)」の起源を探る

碑文谷(ひもんや)。この珍しい地名の起源についてはいろいろな推測がなされているが現在までひとつの説を確定するには至っていません。現在、通説となっている「碑文石(ひもんせき)」説は、碑文谷八幡宮に保存されている「碑文石」にまつわるものです。

 

円融寺(えんゆうじ)

碑文谷一丁目に、都内では2番目に古い木造建築があります。唐様に和様の美を取り入れた単層、入母屋造りの美しい屋根の線を見せている円融寺(えんゆうじ)本堂釈迦堂がそれです。中世建築の資料として貴重なこの建物は、国指定重要文化財であり。釈迦堂の建立は室町時代初期といわれています。

 

山手線目黒駅・目黒通りエリア

大鳥神社

「目黒のお酉さん」と呼ばれ親しまれている大鳥神社。古くは鳥明神といわれ、日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神(しゅさいしん)とする区内最古の神社です。

 

甘藷先生(かんしょせんせい)

サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(1698から1769)。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じですか?樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっています。

 

七福神もうで

なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな

この歌は、上から読んでも、下から読んでも同じ文句になる「廻文(かいぶん)」。江戸時代には、初夢を見るための作法として、宝船に乗った七福神の絵にこの歌を書き添えたものを、枕の下に敷いて寝るならわしがあり、宝船の絵を売り歩く商人の姿が、元日の風物詩のひとつでした。

 

大円寺

目黒駅の西口を出て、すぐ左手の歩道橋を渡ると、角のビルの裏手に目黒川に下る細くて急な坂があります。この坂は行人坂といい、かつて目黒不動参詣の道としてにぎわった道です。坂を下り始めて間もなく、左手に天台宗大円寺があり、江戸の初期、元和年間(1615年から1624年)に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられています。山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群です。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張ることでしょう。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されています。

 

富くじ

「金は天下の回り物」というが、うちにはとんと回って来る気配がない、という庶民にとって、宝くじは一時の夢。宝くじは江戸時代から盛んに行われており、当時は富くじ、または富突きといい、江戸っ子の人気を集めました。

 

富士講

山を神と仰ぐ山岳信仰は、かなり古い歴史を持っています。なかでも庶民に広く受け入れられたのは、秀峰富士を仰ぐ富士信仰でした。平安時代に記された「竹取物語」にはすでに「不死の霊薬」というくだりがあります。今ではビルやスモッグに遮られて、富士山を拝むのも難しいが、空気の澄んだ昔のこと、江戸の町民は朝な夕なに富士に親しんだことでしょう。

 

三田用水1

かつて、目黒の農業用水として上目黒、中目黒、下目黒、三田の4カ村の田んぼを潤した三田用水は、昭和49年廃止となるまで300年近くも、区内を流れ続け、目黒地域の開発に大いに役立ちました。

 

三田用水2

農業用水として長い間田んぼを潤していた三田用水は、明治18年に操業を開始した目黒火薬製造所や同20年の日本麦酒醸造会社(サッポロビール株式会社の前身)の設立に伴い、次第に工業用水としての道をたどることになりました。

 

目黒火薬製造所

安政4年(1857年)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出しました。村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上(かみ)の言うことには逆らえず、しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせたとのこと。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのでした。

 

目黒競馬場1

かつてこの目黒区に、競馬場があったのをご存じですか。まだ農業が中心であったころの明治40年に、目黒競馬場が日本競馬会によって開設され、レース開催日には、大変にぎわいました。

 

目黒競馬場2

目黒競馬場は、競馬ファン以外にも親しまれていました。明治44年に、米国の飛行家マースが模範飛行を試みたり、大正4年にはわが国で初めてという自動車レースが行われるなど、いろいろな催し物が繰り広げられていました。しかし、押し寄せる宅地化の波には勝てず、昭和8年春季、第2回「日本ダービー」開催を最後に、府中へ移転することになりました。

 

目黒のサンマ

皆さんおなじみの落語、「目黒のサンマ」。おなじみとはいっても、話の筋は、噺家によって数多くあり、ご存じの内容もまちまちかも知れません。

 

目黒のビール工場

東京に初めて電気がともされた明治20年、桂二郎が創立者となって、有限責任日本麦酒醸造会社が設立されました。文明開化の波が押し寄せ、市中にビールが出回るようになり、各地でビール会社が設立されるようなりました。同社もそのひとつで、製造工場を目黒6か村のひとつ、三田村の大島に求めたのでした。

 

目黒不動(瀧泉寺)

上野寛永寺の末寺で、不動明王を本尊とし関東でも有数の歴史をもつ霊場です。仁王門の左手、池の奥に「山手七福神」の1つ恵比寿神が祀られています。

 

林業試験場

農林水産省林業試験場として全国の支場や実験林などを統轄し研究を進めていました。昭和53年に筑波研究学園都市に移転し、跡地は、平成元年都立林試の森公園として開園、緑にあふれる憩いの場となっています。

 

一緒に読まれているページ