更新日:2013年9月18日

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歴史を訪ねて 目黒火薬製造所

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒火薬製造所

「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」

江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863年)9月の項の一節である。ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

幕末に設立

安政4年(1857年)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら)(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。

もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上(かみ)の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

明治期に発展

明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。

明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠(こうしょう)へ移管された。
日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。

そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。

明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は、明治44年、それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年、職工数は男女合わせて367人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は、日本麦酒のみであった。

一万分一地形図東京近傍十三号(大正5年大日本帝国陸地測量部発行)

再び移転

もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。

そんななかで、火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。

しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場などの進出によって追い出されたわけである。

火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっている。

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