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歴史を訪ねて 大円寺
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
大円寺
目黒駅の西口を出て、すぐ左手の歩道橋を渡ると、角のビルの裏手に目黒川に下る細くて急な坂がある。この坂は行人坂といい、かつて目黒不動参詣の道としてにぎわった道である。
坂を下り始めて間もなく、左手に天台宗大円寺がある。この寺は、江戸の初期、元和年間(1615年から1624年)に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられている。山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群である。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張ることだろう。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。
大火犠牲者供養の羅漢像
振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
行人坂大火延焼図
石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれている。一体一体をよく見ると穏やかにほほ笑むもの、ほおづえをついて考え込んでいるもの、泣き出しそうなものと、その表情は実にさまざまで、個性あふれる石仏群を見ていると親しみがわいてくる。
この石仏群の手前、本堂横に顔や手が溶けたような、一体の異様な地蔵が立っている。この地蔵は「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。
釈迦如来像のルーツ
さて、この寺のご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り・高さ162.8センチメートル)で昭和32年に国の重要文化財に指定されている。
清涼寺式釈迦如来立像
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」(注記)が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによる。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されている。
(注記)ちょう然(ちょうねん)の表記について
「ちょう」の字はだいかんむりに「周」の旧字体。一部の日本語環境で表示できないため、ひらがなを用いています。
西運の念仏行
この寺はまた、八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもある。
吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せたという。西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提(ぼだい)を弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦(しょう)をたたき、念仏を唱えながら日参したのである。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立された。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移された。
西運に深い関心を持っていた大円寺の当時の住職であった福田実衍(じつえん)師は、昭和18年、同寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらった。その一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑が境内に立っている。
大円寺へのアクセス
- 所在地 目黒区下目黒一丁目8番5号
- 電話番号 03-3491-2793
- 交通 JR目黒駅・東急目黒線目黒駅下車、徒歩5分
大円寺周辺の地図
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生涯学習課 文化財係
電話:03-5722-9320