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歴史を訪ねて 甘藷先生(かんしょせんせい)
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
甘藷先生(かんしょせんせい)
寒い夜はコタツで、ホクホクの焼きイモなんていうのもいいもの。焼きイモと言えばサツマイモだが、郷愁をそそられるかたも多い反面、戦中、戦後の食糧難を思い出してどうも、というかたもおられるかも知れない。あの香ばしさをふりまきながら売り歩く焼きイモ屋さんを見かけることもとんと少なくなってきた。
そのサツマイモ、名前のとおり、今から390年ほど前、江戸時代のはじめに、琉球を経てわが国に伝わり、鹿児島県坊ノ津で初めて栽培されている。初めのころは、「蕃藷(ばんしょ)」または「甘藷(かんしょ)」と呼ばれていたが、元禄以後「甘藷(かんしょ)」として国内に広く知られるようになった。
目黒と青木昆陽
サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(1698から1769)である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっている。
青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。享保4年(1719年)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。
享保17年(1732年)に「天下飢饉、疫癘(えきれい)行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷(かんしょ)が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯(ばんしょ)考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷(かんしょ)の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷(かんしょ)栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷(かんしょ)先生と称されるようになったのである。
その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。昆陽は、晩年、現在の大鳥神社の付近に別邸を構えた。現存する墓は、遠く富士山を望む景勝の地目黒を好んだ彼が生前から居宅の南に建て、自ら「甘藷(かんしょ)先生墓」と記していたものだ。
甘藷先生墓
甘藷まつり
甘藷まつり
甘藷(かんしょ)先生の遺徳をしのんで開催されている「甘藷(かんしょ)まつり」は、例年10月28日に盛大に催され、墓前には、サツマイモや花が供えられる。境内には、露店が軒を連ねて、懐しい大学イモをほおばりながら歩く若い女性など多くの人出でにぎわう。この「甘藷(かんしょ)まつり」、以前は甘藷(かんしょ)先生の命日である10月12日に行われていたが、戦後から、目黒不動の縁日に合わせて28日に行われるようになった。
また、境内には甘藷(かんしょ)問屋の組合が建立した頌徳碑も残っている。
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