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歴史を訪ねて 目黒のサンマ
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒のサンマ
雲州松江18万石、松平出羽守が、あるとき早朝から家来を連れ目黒不動参りに出かけた。
参詣を済ませ、昼食までの時間、家来に向かって、
「足は常から自分で試しておかなければならぬ。余に遅れぬようについてまいれ」
と言うなりいきなり駆け出した。
旧公会堂にあった「目黒のサンマ」の緞帳(どんちょう)
結構長い時間、昼食もとらずに走り続けたので殿様はお腹がすいて仕方がない。さて、別当所に戻ろうとしたその折、近所の農家からサンマを焼くうまそうなにおいが漂ってきた。
「なんのにおいじゃ」
「下々でサンマと申す魚を焼いているものと存ぜられます」
「されば、このほうも空腹の折から苦しゅうない、そのサンマを求めてまいれ」
家来が譲り受けてきたアツアツのサンマを召し上がった殿様、
「これはうまい。下々ではつねに大名よりうまいものを食するのか」
2日後、殿中においでになった雲州公、大広間の溜所で諸公に、
「下々の情を探るとなかなかうまいのを食することがござる。諸公のうちにサンマというものを召し上がったかたがござるか」
大広間へお集まりのお大名、1人もご存じない。そこで雲州公、
「どなたも治にいて乱を忘れずというお心がついたら、下々の情を探っておかねばなりませぬぞ」
その場にいた、筑前福岡の黒田筑前守が立腹して、お館に帰ってから老臣を集め、
「今日はからずも松平出羽守にサンマをもって恥辱を与えられ、ウムナ、残念、早速サンマをとりませい」
家来が早速房州の網元から取り寄せ、気をきかせ塩気と油気をさっぱり抜いて焼き、殿様に差し出した。
「う…、これはよほどまずいなあ。魚が違っていぬか。いずれから取り寄せた」
「へえ、房州の網元へ申し付けましたから結構な品で」
「うむ…、雲州は頬の落ちるものじゃと申したが、けしからんやつだ」
すぐさま殿中に戻り、雲州公をつかまえ、
「サンマは、よほどまずいものでござる。武士をたばかってそのようなことをおっしゃるとは、その意を得ん。御挨拶によってはその分には差しおかぬ」
「まずいとおっしゃられるのは一向にわかりませぬが、黒田公」
「なんでござる」
「ご貴殿はいずれからお取り寄せになられました」
「家来に申し付けて房州の網元から」
「黒田公、それだからまずい。サンマは目黒に限る」
鷹狩場だった江戸期の目黒
皆さんおなじみの落語、「目黒のサンマ」。おなじみとはいっても、話の筋は、噺家によって数多くあり、ご存じの内容もまちまちかも知れない。ここでは二代目柳家小さんの演出のものをご紹介した。
登場する殿様は、将軍家光だったり吉宗だったり、赤井御門守(ごもんのかみ)やさる殿様…サンマをごちそうになったのも農家だったり茶屋だったりと、実にさまざまだが、共通している筋は、殿様が当時、下魚(げうお)とされていたサンマの焼きたてのアツアツを食べたところ。これまで食べたどんな魚よりもおいしい。その味忘れがたく、再び所望したり、人にすすめたりするのだが、当の殿様、サンマは目黒で獲れるものと思い込んでいた、というところがおもしろい。
話の中には、身分制度の愚かしさや、下々(しもじも)と隔離された殿様の無知などをやゆしながら、登場する人物の人間性の愛らしさもちりばめられている。決して、当時、目黒が海辺で、江戸前のサンマの産地だったなんてことはないのでご注意を。
目黒は江戸期、王子、滝野川、十条一帯と並ぶ将軍の鷹場であり、現在でも鷹番という地名に名残りをとどめている。
寛永年間(1624年から1644年)、三代将軍家光が、目黒の鷹狩りの際、現在の田道小学校の横にある茶屋坂の上にあった一軒茶屋に立ち寄ったと言われる。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴さを愛し、「爺、爺(じい、じい)」と話しかけたため、この茶屋は「爺ヶ茶屋(じじがぢゃや)」と呼ばれた。
八代将軍吉宗もたびたびこの茶屋に立ち寄り、主人彦四郎にことばをかけ、茶代として銀1、2枚を与えるのが常となった。その後、歴代の将軍や大名も目黒筋の狩猟の際に、この茶屋に立ち寄るのが恒例となった。
茶屋の彦四郎の子孫である島村家には、十代将軍家治が立ち寄ったとき、側近の者に命じられて、団子や田楽を差し上げたのをはじめとして、以後たびたび、100串とか150串を差し出すようになったという文書が伝わっている。
「目黒のサンマ」も、そんなところから創作されたのではないかとも考えられるが、定説はない。
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