更新日:2024年2月15日

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歴史を訪ねて 目黒競馬場 1

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒競馬場

かつてこの目黒区に、競馬場があったのをご存じだろうか。まだ農業が中心であったころの明治40年に、目黒競馬場が日本競馬会によって開設され、レース開催日には、大変にぎわったという。

ところが、宅地化が進んだことなどから、昭和8年に府中市へ移転して、東京競馬場となったのである。現在競馬場跡には、住宅や区立不動小学校などが建ち、往時の面影を残すのは、下目黒四丁目の競馬場外周の道や、目黒通りの「元競馬場前」というバス停だけである。


元競馬場の碑(トゥルヌソル号)

馬匹改良のため競馬を奨励

今日、競馬に勝馬投票券いわゆる馬券はつきものである。明治21年に外国人が横浜の根岸競馬場で馬券を発売していた記録があるのを除けば、明治39年に東京競馬会が、池上の競馬場(現在の大田区池上六丁目から八丁目)で発売して大成功したのが日本では最初のことである。

折から明治政府は、先の日露戦争で帝政ロシアのコザック兵の馬に対して日本の馬が著しく劣り苦戦を強いられたことから、軍馬の改良・増産を目指して競馬を奨励していた。日本競馬会は、こうした政策に応えるということで明治40年3月に設立されたが、前年の池上競馬で実証された多大な収益性も大きな動機付けとなっていた。

工夫を凝らした目黒競馬場

日本競馬会が山手線目黒駅から1キロメートル程離れた土地に開設した、総面積6万4,000余坪の目黒競馬場は、調教馬場のほか出走馬をファンに見せる引馬場も併設するなど、当時としては目新しい設備をそろえたものであった。観覧スタンドは、貴賓室などを設けた3階建ての1号館と、間口が48間の2号館から成っていた。

用地の大部分は借地であったが、建設を請け負った東京馬匹(ばひつ)改良株式会社が、借地料を相場の4倍も払うとしたうえ、競馬場で作業員として働けば日当50銭を支払うとしたことから、地主たちは喜んで土地を貸したという。

目黒で鳴らしたヤクモ二世

トローチングレースの馬

目黒競馬場での第1回競馬の開催は、明治40年12月のことであった。初日から好評を博し、レースの展開に一喜一憂する観客の中には婦人の姿も見られ、清国大使の観覧もあったという。

この様子を当時の競馬雑誌は、「第4日(12月15日)―前日の強風に引換え好日和なると殊に日曜日といい最終日のこととて入場者非常に多く場内の雑踏名状すべからず、別けて2号館の如きは階段の昇降も自由ならず況(いわんや)して競走中は高所にありては肩摩轂撃(けんまこくげき)(肩が触れ合うほど人がいるさま)漸く(ようやく)見物し得る程の実況なりき」と伝えている。同雑誌に掲載されている各レースの戦績表には、ヤクモ2世、フドウといった目黒にちなんだ馬名も見受けられる。

開設一年足らずで暗礁に

目黒でもこうして順調な出足を見せた競馬であったが、高じた競馬熱は一獲千金を夢見る人たちを、各地の競馬場に押しかけさせ、そのために風紀が乱れはじめた。経済的破たん者が続出するなど社会の混乱を恐れた政府は、翌41年10月、馬券の発売を禁止した。馬券の売り上げで潤っていた日本競馬会の運営は、こうして目黒競馬場開設後1年足らずで、暗礁に乗り上げてしまったのである。

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