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歴史を訪ねて 三田用水 1

更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の発展に大きな役割

かつて、目黒の農業用水として上目黒、中目黒、下目黒、三田の4カ村の田んぼを潤した三田用水は、昭和49年廃止となるまで300年近くも、区内を流れ続け、目黒地域の開発に大いに役立った。

いま、その名残をとどめるのは、玉川上水からの取水口であった世田谷区北沢5丁目付近の水門、その近くに建つ石碑と弁天堂、それと東京大学教養学部わきの山手通りに沿った用水路などだ。この弁天堂は、関東大震災で水門が壊れ修理を行った際、大量の蛇が出、この蛇を供養するために、三田用水組合が建立したものである。

区内では駒沢通りを恵比寿に向かう新道坂上の鎗が崎の高架鉄樋と三田二丁目、中目黒二丁目境の茶屋坂隧道ずいどうなど、往時をしのばせるものがかつてはあったが、その名残をたどることは難しい。

三田用水は農民の嘆願で

さて、当の三田用水だが、江戸の初期、寛文4年(1664年)に、飲料用として玉川上水から分水して、三田上水が造られた。この上水は、白金御殿と呼ばれた松平讃岐守の下屋敷(現在の自然教育園辺り)も使用したといわれる。この三田上水の余水を灌漑かんがい用水として農民が利用することが許されたので、付近の農村は大いに潤っていた。

しかし、享保7年(1722年)にこの上水は廃止となり、そのため、たちまち農民は困り、時の関東郡代・伊奈半左衛門に嘆願して、享保9年(1724年)、三田上水を農業用水として再使用することを許され、水路幅約1けんの三田用水ができた。

この三田用水は、灌漑かんがいや米をつく水車に利用されることになったが、世田谷領下北沢村で玉川上水から3尺四方の樋口で分水して、代々木、中渋谷、上目黒、中目黒、下目黒、三田、白金、大崎などの各村を通り、延長2里余りで、現在の五反田付近から目黒川に注いでいたと伝えられる。

取水がままならぬことも

三田用水の利用については、いろいろな問題があった。三田村などの14か村で水利組合をつくり、堀さらいや普請などの維持を行っていたが、江戸のまちの飲料水として不可欠な玉川上水は、渇水期に入り水量が減ると、幕府は、三田用水の取水門を三分開け、二分開け、あるいは閉鎖するなど厳しく規制をした。この規制により水争いが起こるようになり14か村は「番水約定」を決めて、上の村が引水すれば、翌日はその下の村でというように隔日に利用して、村役人立会いで水番を行ったこともあるそうだ。

また、当時の三田村の大部分は幕府御用地や大名、旗本の下屋敷で占められ、屋敷の庭には三田用水から引水した池や滝があったといわれている。特に、九州の島原藩主松平主殿頭下屋敷には3段に折れて落ちる滝があり(千代が池)、また、明治維新の大業を成し遂げた西郷隆盛のために建てたといわれる、弟従道の別邸の庭園池にも流れ込んでいたといわれる。

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