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歴史を訪ねて 三田用水 2

更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

三田用水

農業用水として長い間田んぼを潤していた三田用水は、明治18年に操業を開始した目黒火薬製造所や同20年の日本麦酒醸造会社(サッポロビール株式会社の前身)の設立に伴い、次第に工業用水としての道をたどることになった。

水力で火薬を製造

三田用水を水力として利用した目黒火薬製造所は、明治13年に三田村に建設された。同所で作られた有煙火薬は日清、日露の戦争に使われ、発展していったが、周囲に人家が増え、昭和3年に区外へ移転した。跡地は、後に海軍省技術研究所、駐留軍のエビスキャンプ、返還後は現在の防衛庁技術研究本部第一研究所となった。

ビール造りにも利用

ビール1本造るには約20本分の水が必要という。明治20年、日本麦酒醸造会社は、工業用水として三田用水を利用できるという立地条件から、三田村(明治22年、目黒村となる)に工場を建設した。

明治40年には、需要の激増から1日120石(約2万1,600リットル)のビールを確保するため、毎夜10時まで就業していたという。このように急速に発展した同社(明治26年に日本麦酒株式会社)は、目黒村の経済に大きな潤いを与えた。反面、当時の選挙権は納税額によって制限されていたので、定員12人の村会議員のうち納税額のずばぬけて多い同社から4人が選出されたことなどから、日本麦酒の存在が村政に対して、大きな発言力も持っていたことがうかがえる。

農業衰退で姿を消す

三田用水組合の明治28年の収入をみると、灌漑かんがい用水としての使用料が3割強、目黒火薬製造所、日本麦酒および水車営業者からの使用料が7割弱を占めている。このように三田用水組合では、収入の主要な部分を農業以外に利用する人びとに頼っていたことがわかり、このころから工業用水としての性格を持ちはじめていたことが認められる。三田用水が目黒の工業発展に果たした役割は大きかったが、このような変化が急速に起きたことから、農民と工場との間で、しばしば水をめぐりトラブルが起きたという。

関東大震災や東横線の開通(昭和2年)などにより、都市化の波が目黒にも押し寄せた。これにより農地の宅地化が進み、三田用水を利用する農民は次々と消えていってしまった。三田用水は本来の農業用水という目的が失われ水利権が認められなくなった。昭和49年9月、ついに東京都は取水門を閉鎖し、300年近くも流れ続けた三田用水の歴史はここに幕を閉じたのである。

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