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歴史を訪ねて 富くじ

更新日:2017年6月20日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

富くじ

「金は天下の回り物」というが、うちにはとんと回って来る気配がない、という庶民にとって、宝くじは一時の夢である。宝くじは江戸時代から盛んに行われていた。当時は富くじ、または富突きといい、江戸っ子の人気を集めた。

信心と娯楽の二本立

「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」

麦打歌に歌われた目黒三社の、大鳥は大鳥神社、不動は目黒不動、金毘羅は高幢寺こうとうじ金毘羅権現社のこと。もっとも高幢寺こうとうじは今では廃寺となっている。

目黒三社の中でも、目黒不動は目黒詣での人びとで大いににぎわった。近くには、行人坂上の夕日が岡などの景観地もあったし、俗に蛸薬師と呼ばれる成就院や、蟠竜寺もある。少し足を延ばせば、名刹祐天寺もある。娯楽の少ない昔のこと、寺社詣でといっても信心と娯楽の両方を兼ねていた。行人坂から目黒不動尊門前までの道筋には、料理屋や土産物屋がぎっしりと立ち並んでいた。人気のあった土産物は、名物餅花、目黒飴。餅花は木の枝に小さくまるめた五色の餅をつけたもの。飴は桐屋が有名で「江戸名所図会」にその繁盛ぶりがうかがえる。

目黒には遊郭はなかったので、目黒詣でを終えた江戸っ子の足は、品川宿へ向くことになる。品川宿はするりとは通り抜けられない「難所」だったらしい。当時の川柳には、目黒詣で帰りを詠んだものが何首かある。

「餅花を 提げて難所へ さしかかり」

「言訳けの おみやを召せと 桐屋言い」

にぎやかな目黒不動が、いっそうにぎわったのは、官許の富くじ興行の日であった。

官許の富くじ興行

富くじは、寛永のころから行われており、元禄には幕府が禁令を出したが、ひそかに行う者が絶えなかったといわれる。富くじ興行を禁じていた幕府が、特定の寺社だけにではあるが、興行を許したのは、享保15年(1730年)、京都仁和寺が初めて。これは幕府の財政事情によるものだった。幕府から寺社への補助金が減ったので、寺社が修理費等の工面のために富くじを売ることを、許したのである。やがて江戸でも行われるようになり、文化9年(1812年)に始まった目黒不動と湯島天神、同14年(1817年)の谷中やなかの感応寺(現、天王寺)は、「江戸の三富」と称された。

文化・文政のころが富くじの最盛期で、官許の富くじが江戸だけで31カ所もあり、多い月には20回以上開かれたという。価格は1朱(1両の分16の1)から1分(1両の4分の1)。札が町なかでも売られるようになると、時にはプレミア付きで高い富札を買わされる者もいた。当たりは当初100両だったが、のちには1等にあたる「突き留め」が1,000両、2等の「二番富」が500両と、高額になった。

度を超した富くじ熱

開札はくじを売り出した寺社の境内で、寺社奉行立会いの下に行われた。当日は大勢の人が詰めかけ、大変な熱気だった。境内には読経の声が流れ、人びとは今か今かと待ちわびている。やがて読経が終わり、発行された富くじと同じ枚数の小さな木札を入れた箱を、僧が上下左右に揺する。人びとが息をのんで見守るなか、目隠しをした者が、箱の上部の穴から、柄の長いきりでエイッとばかり木札を突き差す。当たり番号が読み上げられると、どっとどよめきが起こる。

落語「富久とみきゅう」は、千両富に当たった幇間ほうかんの話である。何しろ200両もあれば小間物屋が1軒買えたというから、1,000両といえば大金である。その当たりくじが火事で燃えてしまったと思い込んで、半狂乱になるのだが… 結局、この話はめでたしめでたしで終わるが、こんな果報者ばかりいたわけではない。望みを託して金をつぎこみ、しまいには「富札の引きさいてある首縊り」などという川柳が詠まれる事態も起きたらしい。

過度に射幸心をあおる富くじは、老中水野忠邦の天保の改革で禁令が出され、富くじは廃止された。しかし庶民の人気は消えず、その後もしばしば行われたのである。

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