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歴史を訪ねて 目黒のビール工場
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
ドイツの技術を導入
東京に初めて電気がともされた明治20年、桂二郎が創立者となって、有限責任日本麦酒醸造会社が設立された。文明開化の波が押し寄せ、市中にビールが出回るようになり、各地でビール会社が設立されるようになった。同社もそのひとつで、製造工場を目黒6か村のひとつ、三田村の大島に求めたのである。
工場敷地は1町9反余(1万8,848平方メートル余)で、ドイツから醸造機械および麦芽を購入するとともに技術者を招請し、舶来のものに劣らないビールづくりを目指した。当時の国産大麦の品質がビール醸造に適さなかったために、どうしても輸入ビールに対抗できない状況におかれていたためであった。
発売開始は明治23年で、「恵比寿麦酒」という商標であった。当初の年間販売目標は1万石(大瓶換算で300万本)。販売目標は達成できなかったが、ビールの評判は上々であったため、逐次業績を伸ばし、明治26年、社名を日本麦酒株式会社とした。
多量の水を使うビール製造
同社の株主を、設立時の資料で見ると、目黒地域の人が見当たらない。それなのになぜ目黒が工場建設用地に選ばれたのであろうか。
その理由として、まず挙げられるのが水である。ビールづくりには良質でしかも多量の水が必要である。俗にビール1本つくるのに、15倍から20倍の水が必要と言われている。付近を流れる三田用水や、目黒川流域に多くみられる湧き水など、豊富な水が誘因となったのである。しかも当地は比較的高台にあり、こうした多量の水を排水するのに大変便利であったのである。
次に、消費市場に近かったということである。交通・運輸機関が発達していない当時、重い瓶に詰められたビールを消費地へ配送するには手間がかかるので、あまり工場が遠いとコストがかさむ。ビールの鮮度も損われてしまう。当時の技術水準ではビールの長期保存が無理だったのである。配送ということではビールの輸送手段である鉄道(現在の山手線)が明治18年に新宿から目黒の間に開通し、工場用地のすぐ脇を通っていたことも挙げられよう。「恵比寿麦酒」にちなんで山手線に「恵比寿駅」という駅名があるのは、その証しであろう。恵比寿駅の前身は、荷扱所である。
旧サッポロ恵比寿工場
こうして目黒地域に登場したこの大工場は、地域の近代化に少なからぬ影響を与えた。まず村政の面では、同社の納税額がずば抜けて高かったため、財政が潤った一方で、村会にも12人の定員中4人の、今でいう議員を送り込み、村政に対してかなりの発言権をもっていたようである。
さらに、それまで三田用水を農業用水として利用してきた農民側から、ビール生産に用水を使われては、かんがい用水が不足して困るという訴えが出た。いわば目黒地域の農家(民)と工場との間で、水の争奪がしばしば起きたのである。
日産100万本の近代的工場から多くの人が集うまちへ
昭和50年代後半の工場
日本麦酒株式会社は、その後、明治39年に大阪と札幌のビール会社と合併し大日本麦酒株式会社となり、業績を拡大していったが、昭和24年、過度経済力集中排除法などによって分割され日本麦酒株式会社となった。今日のサッポロビール株式会社となったのは、昭和39年のことである。
大瓶換算で一日に100万本ものビールを生産していたサッポロビール恵比寿工場は平成6年に恵比寿ガーデンプレイスとして工場から商業のまちへと生まれかわった。
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