更新日:2024年3月29日

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歴史を訪ねて 目黒不動(瀧泉寺)

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒不動(瀧泉寺)

泰叡山瀧泉寺(目黒不動)(天台宗)は寛永寺の末寺である。
目黒不動尊縁起によれば「滋覚大師が大同3年(808年)比叡山に向かう途中目黒で宿をとった。その時、不動明王の夢を見たのでその像を彫り、安置した。それが寺の始まりである」という。

その後大師は天安2年(858年)に堂宇を造営し、自らの手で「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」を棟札に記した。そこから寺号を「瀧泉寺」と称するようになり、また、貞観2年(860年)に清和天皇より「泰叡」の勅額を賜わり、山号を「泰叡山」と称するようになった。

目黒不動画像

目黒不動

江戸近郊の行楽地

弘治3年(1557年)に堂塔の修理造営を行ったが、元和元年(1615年)に火災のため、ほとんど焼失してしまった。しかしながら本尊と本尊所持の「天国の宝剣」は奇跡的に難を逃れた。

その後、寛永7年(1630年)に上野護国院の末寺となり、将軍家の保護を受けるようになった。そのきっかけは、将軍家光が鷹狩りで目黒の辺りに来ていた時、可愛がっていた鷹が行方不明になるということがあり、そこで不動の僧に祈らせたところ無事に戻ってきたことからだという。喜んだ家光は不動を深く尊信し、焼失していた堂塔を再建したという話である。

以来、幕府の保護が厚く、江戸近郊における有数の参詣行楽地となり、門前町もにぎわった。

近くには、行人坂上の夕日が丘などの景観地もあったし、俗に蛸薬師と呼ばれる成就院や、蟠龍寺もある。少し足を延ばせば、名刹祐天寺もある。江戸の三富と呼ばれた富くじが行われたことも、目黒不動繁栄の一因となった。

独鈷の滝と前不動堂

慈覚大師が長安の青竜寺に清い滝があったのを思い出し、試みに独鈷(とっこ)(注記)を投げたところ、たちまち泉が湧き、滝となったと伝えられている。二条の清水が銅製の竜口から注いでおり、不動講の水垢離場(みずごりば)となっている。近年水量は減ったが、1年中水が枯れることはない。

独鈷の滝

独鈷(とっこ)の滝の左手にあるのが前不動堂。本尊は不動明王立像で、庶民信仰の便を図ったものとも、本堂に祈願するための徳を積む修業の場であったともいわれる。

(注記)独鈷(とっこ)とは煩悩を打ち砕く仏具のこと

甘藷先生をしのんで

本堂裏の墓地に、サツマイモの先生でしられる青木昆陽の墓がある。昆陽が生前邸内に立てておいたものといわれ、碑の正面に「甘藷(かんしょ)先生墓」と楷書で書かれている。

毎年10月28日には遺徳をしのんで、甘藷(かんしょ)祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が出て、大勢の参拝客でにぎわう。昆陽が亡くなったのは明和6年(1769年)10月12日だが、同寺の縁日にあたる28日に供養を兼ねて祭るようになったという。

仁王門前には芝居でおなじみの白井権八・小紫の比翼塚もあり、都立林試の森公園と周辺の寺院群はみどりの散歩道として人びとに親しまれている。

今もなお、お不動様は庶民信仰の対象として、いにしえの夢をはぐくみ、現代に結んでいる。

目黒不動へのアクセス

  • 所在地 目黒区下目黒三丁目20番26号
  • 電話番号 03-3712-7549
  • 交通 バス(JR五反田駅から渋谷駅)目黒不動尊下車すぐ。東急目黒線不動前下車、徒歩15分。JR・東急目黒線目黒駅下車、徒歩20分。

目黒不動周辺の地図

お問い合わせ

生涯学習課 文化財係